大野斉子(おおの・ときこ)さんの『シャネル№5の謎』(群像社)をいただきました。何年か前の東大での公開講義でこのテーマを扱われ、いつか著作にまとめたいとおっしゃってましたが、それが実現したのですね。おめでとうございま~す
香水の歴史について書くのは非常に難しい。まず何と言っても、美術やファッションなら図版でかなりの程度「モノ」を示せるが、香水はねぇ……いくら華々しい図版を載せたところで「モノ」が何なのか全然伝わらない。すでに香水に興味があって、フロリエンタルとかフゼア調とかゲラン系というよりキャロン系とか言えば「ああ、こんな感じね」とイメージできる人にしか伝わらない。これはもうどんなに優秀な書き手でも克服できない根本的な問題なので、まあ……諦めるしかないっす。音楽とかコーヒーとかワインだってそうだしね。そして、大まかに言って①香料・化学、②ファッション、モード、③歴史のそれぞれに知識がないと語れない。たいていの香水についての本は、③がテキトウ。これは海外の本でも同じ。ワタシ的には、どうせどれも揃った本なんていつまで待ったって出やしないさ~、とすでに諦めモードだった。ならお前が書けって? まあ確かに私は三つのジャンルすべてにまんべんなく知見があると思うが、まんべんなくたいしたレベルではないので話にならない。
なので大野さんの単著には期待していた。何しろ、ロシア語の一次史料をフィーチャーした香水史なんて、少なくとも日本では前代未聞ですもん。アメリカやヨーロッパでもロシア語が分かる香水研究家なんてどれだけいるだろう。
結論から言うと、研究としては素晴らしく、書籍としてはまだ出版のレベルに達していない、と言えましょうか。看過できない問題が大中小存在する。大は章立て。第二章~第四章で扱っているのは、主に①香料・香水全般の歴史、②ロシアにおける香料・香水の歴史、③香水の使用者や社会的位置づけ、生産量に関する統計的、社会史的考察(「からだ」や「におい」に関するアナール派的研究への言及含む)、④ラレ社とブロカル社について、⑤ロシアの芸術(特に文学)に現れるにおい・香り・香水についてということになるだろう。が、第三章と第四章で②と③がかなりの重複を含んで繰り返され、⑤への言及が多すぎてそもそものテーマがかすんでしまっている。章立て自体を見直すべきではないだろうか。
中は記述の重複が多いこと。すでに何度も言及してきたことを、まるで初出のように説明調に言及し直すのはいかがなものだろうか。歴史一般や文学についての部分はちゃんと流れるのだが、調香師エルネスト・ボーとラレ社についての部分は、大事なことだからとつい念を押したくなるのかもしれないが、これを何度も何度もやられると、かえって重要な情報が頭に入らない。ことに第一章がひどい。ここで挫折する読者も多いのではないかと心配になる。
小は固有名詞の表記。原音に忠実に、と思ってしまうのだろうけど、すでに定着したカルサヴィナ(なしいカルサーヴィナ)、シャリアピン、カンディンスキー、ネヴァの表記をいちいち「コルサーヴィナ」、「シャリャーピン」、「カンディンスキイ」、「ニーヴァ」と表記するのはあまりいいことではないのでは。でもなんでカンディンスキーは「カンディンスキイ」なのにドストエフスキーは「ドストエフスキー」なんだろう……。Гостиный дворはなんで「ゴスチーンヌイ・ドボール」なんだろう……。綴りは「в」なのだから「ドヴォール」では? 本書では「ヴ」表記そのものは採用しているはず。原語に忠実というのなら、フランス語もcypreは「シプレー→シープル」、Crêpe de chineは「クレープ・デ・シン→クレープ・ド・シーヌ」、Antoine Chirisは「アントワン・シリス→アントワーヌ・シリス」と表記していただきたい。香水の名前に「」がついてたりついてなかったりするのも気になる。
そして一見些末なれど爆弾級の問題は、史実の誤認(p.268)。シャネル№19はエルネスト・ボーの作品ではない。彼の死後、1970年にパルファム・シャネルが発売したアンリ・ロベールの調香による作品だ。これは『白鳥の湖』をグラズノフの作品と言ってしまうのと同じくらい大きな間違いなので、増刷を待つまでもなく、訂正の紙を入れてください>群像社
個人的な不満を言えば、第二次世界大戦前後の歴史にも多少なりとも触れてから本書を締めくくってほしかった。パルファム・シャネルは№5の後、大戦中にユダヤ商人と商標でモメてナチスにすり寄った大黒歴史があるが、この間、ボーはバムファム・シャネルに在籍している。亡命ロシア人ボーがどのように身を処したのかは、彼の生涯を語る上では欠かせない部分なのではないだろうか。こういう大事なところをさくっとスルーしちゃうあたりも、史学の人間としてはひっかかる。著者はそもそも文学研究が専門なのは分かるのだが、歴史について書くと決めた以上、もうちょっと何とかしてほしい。
余裕があれば、やはりソ連からの亡命者である現代の名調香師ソフィア・グロスマンにも言及してくれたら嬉しかったです。以前大野さんにお目にかかった時にグロスマンのことはお話ししたので大野さんも知らないことではないと思うけど……。その他にもスラヴ語の名前を持っている調香師はけっこういるので、彼らのうちにロシア帝国・ソ連の出身者がいれば、それについても研究して欲しかったです。そういうところに目が行きとどいていたらスゴイ本になったと個人的には思ったり……
重複や余分な部分を整えれば、三割程度は量が減るが、その分論旨は明快になる。固有名詞等、シロートにも一目で分かるところに問題があると、「この本、我々シロートには分からないところも実はごまかしだらけだったりしないのだろうか」という不信感を読者に与えかねない。どれも克服できないほど致命的な問題ではないはず。私が姑根性であれこれあげつらっているように思えるかもしれないが、こういうチェックはまともな研究書には絶対に必要なことで、出版前にすべきことなのだ。群像社の島田さんの仕事だ。せっかくいい内容の本なのだから、ちゃんと仕事してよ島田さん! 大野さんの業績として一生残る第一著作がこういう形で世に出てしまったことが悔やまれる。ああ……タイムマシンがあればなあ……orz
付記:あ、そうだ、ラレ社の帳簿を調査したらラレ№1の配合の手がかりになるかも。香料や化学薬品の購入量を調べるわけですよ。この間『マッサン』でも「帳簿を見とったらウイスキーを作ってるだろうと分かった」っていうセリフがありましたね。帝政ロシア時代の奢侈品の会社の帳簿なんて残ってないかなあ……。でもいちおう存在確認の調査をする価値はあるのでは。
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