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2016年8月 5日 (金)

『シン・ゴジラ』見てきた

『シン・ゴジラ』 見てきました。あんまりちまちまといろんな刺激があると内容に集中できなくなる性質なので、TCXだけどのスクリーンで。
 
いや~、これはヤバイものを見てしまった。目つきが使徒だ。特に第二形態は。姿も、直視するのがつらい気持ち悪さ。何をどうしても意思の疎通なんかあり得ない、まさしく異形の存在にして核の恐怖の化身。そういう意味では原点回帰だろう。私たちは、1954年に第一作を見た人たちの恐怖を初めて追体験しているのかもしれない。少なくとも私はそうだ。何しろ私が子供の頃すでに、ゴジラは親しみやすいキャラ化していたので、その後いかにもこわいもののように描かれても「あ~はいはいゴジラね」くらいにしか思ってこなかったからなあ。もう映画のキャッチコピーにもほんの帯にも感心しなくなって久しく、「宇宙ではあなたの悲鳴は誰にも聞こえない」みたいな名作はもう生まれないだろうと思っていたが、本作の「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」はもう、ウマいと思わせるだけではなくまったくその通りで、これも感心。
 
人間の側は、「主要登場人物」はいるが、「主人公」はいない。主役はまさしく、「事態」であり、「現実(ニッポン)」だ。人間ドラマも登場人物の背景も感情も個性も極限までそぎ落とし、セリフだけではなくいかにも庵野な文字情報を多用してひたすら「事態」を追う。「この国では誰が決断するのかしら?」っていかにも映画でやりそうなウスッペラい日本批判なんか出してきてダサイなあと思っていると、最終的にはそれを無力化する「いかにもニッポン」なやり方の積み重ねで、何もかもがいい意味でも悪い意味でもあきれるほどニッポンな解決に至っちゃうのだ。品川でまだ小さい第二形態のゴジラを叩けなかったニッポンをあの国やこの国はきっとヘタレと思っただろうけど、これが現実(ニッポン)なんだよ。それだからこそあの結末なんだよ。日本がキライで外国に移住した日本人は、多分この映画は見たらキライになるだろうなあ。
 
「気持ち」の描写も極力排除されているが、それは、パタースン特使が国連安保理の決議と母国アメリカからの退去命令に逆らう時、ひと言だけ語られる「おばあちゃん」の件にちらりと彼女の個人的な感情が見え、観客も――少なくとも私はそうだった――その一瞬にはっと心を動かされる。一番重要なことは最初から最後まで声を大にして叫ばなくても、こういう忘れがたい瞬間によって見るものの魂に刻み付けられる。
 
ネットには、結末がショボイとか絵的にダサイとかの批判があふれかえっているようだが、いやこれが現実(ニッポン)なんだよ。絵的には明らかに意識してレトロ日本怪獣映画だし……え? インデペンデンス・デイ? いやだってあれは映画だから(笑)。世界を作っているのは戦闘機に乗る大統領ではなく、オタク力を結集するはぐれ者たちであり、いざとなったら出世をなげうつ覚悟のある出世主義者たちであり、カウントダウンのさなかにもお茶を入れてくれるおばちゃんたちであり、誰にも知られず誰にも褒めてもらえないところで頭を下げるおっさんたちなのだ(まさかの2199テイスト活躍ありw)。そういう意味では脚本的には『マン・オブ・スティール』に通じるものがあると思うけど、『マン・オブ・スティール』は悪い意味でゲームっぽい3DGCでその素晴らしい脚本を台無しにしてしれやがった一方、『シン・ゴジラ』は好みが分かれる庵野演出でその脚本を生かし切ったと言えるのではないかと思う。
 
私は正直、庵野テイストがあまり好きではないのだが、本作は、その個人の好みを超えて「認めざるを得ない」ものだと思う。怪獣映画らしく、ちゃんと続編を作る終わり方になっているが、正直、庵野さんには本当にこの「一回限り」にしてほしい。庵野テイストが好きじゃないからという意味ではなく、庵野ゴジラは本当にこれ一本にすることによって本当に「完成する」と思うからだ。
 
私はTOHOシネマズ日本橋で見たのだが、行きは地下鉄だったけど、帰りは思わず東京駅から在来線(有人)に乗って帰りました(笑)。

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