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2015年2月26日 (木)

ロボットレストランのリムジン

20150226今や知らぬ者のない(というほどではないかしら)新宿のロボットレストランですが……

新板橋駅前の空き地にロボットレストランのリムジンを発見!

そうかこんなところに停めてあるんだw でもこれ「オープン」と書いてあるところを見ると、オープニングイベント専用? それとも、必要があれば中山道→明治通りってして新宿に出勤するの?

新宿から見た板橋の扱いって、だいたいこんなだw

2015年2月21日 (土)

シェーファー タルガ モワレ

201502211以前、タルガ・プレステージ(Sheaffer Targa 1040 Laque prestige       marble grey, 1041 Laque       prestige blue, 1043 Laque       prestige burgundy)のことを「愛用の万年筆」のエントリで紹介して、そのうち別なレアタルガも紹介します、と言いつつ先延ばしにしていた。モワレも三種全部そろったらupしようと思っていたのだが、どうも揃いそうにないので、もういいや、今持ってるやつだけupしちゃおうと思いまして。

モワレはレアタルガの中でもとりわけ人気がある。今でもアメリカのオークションにごく稀に出品されるのだが、コンディションのいいやつは値段が上がるばかりで、コレクター魂のない私は全然買う気にならないのだった。

モワレモデルは1085 amber moiré、1086 green moiré、1087 blue moiréの三種。生産されたのは1994年。もう20年も前だが、その頃私はもうとっくに成人していたので、そんなに昔という気はしない 当時は日本ではもうほとんどタルガを売ってなかったんじゃなかったかと思う。私がモワレモデルの存在を知ったのはここ5、6年のことで、すでにオークションでプレミアがついていた。いずれにしてもモワレはプレステージ同様日本には入ってこなかったモデルだという。日本では何らかの形で余計にカネを積まないと手に入らなかったものってことか……

で、写真の上がアンバーのボールペン、下がブルーの万年筆。アンバーはアメ横のマルイ商店にいつの間にか入荷して、ひっそりと売られていたのを見受け。未使用品はオークションだと100ドルに達することがあるが、4000円でゲット。

201502212下のブルーはモワレの中でも激レアと聞く。確かに、オークションではアンバーとグリーンは見たことがあったが、ブルーついぞお目にかかったことがない。アメリカのある有名バイヤーがイギリスから買い付けたデッドストックを放出した時も、アンバーとグリーンしか出てこなかった(たいてい350ドルを超えたので手は出さなかったけど)。

しかし三年くらい前、何となくe-Bayを見ていたら、リロードしたとたん、モワレのブルーが出現! 万年筆のディーラーではなく、文具を含んだ雑貨類をいろいろ扱っているディーラーが出品したものだった。即買い価格100ドル!(しかも1ドル100円前後の頃)。曰く「未使用デッドストックのはずだが、使えるかどうかは不明。見た目価格なんでヨロシク」とのこと。もちろん脊髄反射でポチった。タルガは何本か持っているので、もしこれのニブが書けないシロモノだったとしても、書けるやつとニブ取り替えちゃえばいいんだもんね~w しかも日本ではあちこちでペンクリニックなどということをやっているのだ! 書けるかどうかは実はさほど大きな問題ではない。

この激レア品がこの価格で手に入ってしまう……って、もしかしたらすごいトホホなオチがついている可能性もあって不安だったのだが、無事、美品を入手。ちゃんと書ける。しかしこれでタルガ運を使い果たしたのか、これ以降、ホシイものはほとんど手に入らなくなってしまった。オークションでもタルガの市場は払底状態で、もうレアものはほとんど出なくなってしまっているし、もうタルガを買うことはないかもしれない。私はコレクター魂もないことだし、まあいいか……。でもグリーン・モワレは機会があったらちょっと欲しいなあと今でも思っていないこともない。

「シェーファー タルガ」の検索語で私のブログに来る人は実はけっこういる。三日に一人くらいは必ずいる。とうに過去のものとなった量産モデルだが、今なお愛されているんだなあと思うと、タルガ愛好者の一人としてはとても嬉しい。今でもシェーファーはインレイドニブ作ってるけどさ、VLRもレガシー・ヘリテージも太くて、かつてスリムだった憧れの君が恰幅のいいおっちゃんになってしまったみたいで、なんか現行のインレイドニブは萌えない。またタルガ作ってくれよ~>シェーファー。愛用者の同志諸君、これからも華やかな高級モデルが氾濫する世の中でひっそりと生きましょうぞw

2015年2月16日 (月)

シャネル№5の謎

9507
大野斉子(おおの・ときこ)さんの『シャネル№5の謎』(群像社)をいただきました。何年か前の東大での公開講義でこのテーマを扱われ、いつか著作にまとめたいとおっしゃってましたが、それが実現したのですね。おめでとうございま~す

香水の歴史について書くのは非常に難しい。まず何と言っても、美術やファッションなら図版でかなりの程度「モノ」を示せるが、香水はねぇ……いくら華々しい図版を載せたところで「モノ」が何なのか全然伝わらない。すでに香水に興味があって、フロリエンタルとかフゼア調とかゲラン系というよりキャロン系とか言えば「ああ、こんな感じね」とイメージできる人にしか伝わらない。これはもうどんなに優秀な書き手でも克服できない根本的な問題なので、まあ……諦めるしかないっす。音楽とかコーヒーとかワインだってそうだしね。そして、大まかに言って①香料・化学、②ファッション、モード、③歴史のそれぞれに知識がないと語れない。たいていの香水についての本は、③がテキトウ。これは海外の本でも同じ。ワタシ的には、どうせどれも揃った本なんていつまで待ったって出やしないさ~、とすでに諦めモードだった。ならお前が書けって? まあ確かに私は三つのジャンルすべてにまんべんなく知見があると思うが、まんべんなくたいしたレベルではないので話にならない。

なので大野さんの単著には期待していた。何しろ、ロシア語の一次史料をフィーチャーした香水史なんて、少なくとも日本では前代未聞ですもん。アメリカやヨーロッパでもロシア語が分かる香水研究家なんてどれだけいるだろう。

結論から言うと、研究としては素晴らしく、書籍としてはまだ出版のレベルに達していない、と言えましょうか。看過できない問題が大中小存在する。大は章立て。第二章~第四章で扱っているのは、主に①香料・香水全般の歴史、②ロシアにおける香料・香水の歴史、③香水の使用者や社会的位置づけ、生産量に関する統計的、社会史的考察(「からだ」や「におい」に関するアナール派的研究への言及含む)、④ラレ社とブロカル社について、⑤ロシアの芸術(特に文学)に現れるにおい・香り・香水についてということになるだろう。が、第三章と第四章で②と③がかなりの重複を含んで繰り返され、⑤への言及が多すぎてそもそものテーマがかすんでしまっている。章立て自体を見直すべきではないだろうか。

中は記述の重複が多いこと。すでに何度も言及してきたことを、まるで初出のように説明調に言及し直すのはいかがなものだろうか。歴史一般や文学についての部分はちゃんと流れるのだが、調香師エルネスト・ボーとラレ社についての部分は、大事なことだからとつい念を押したくなるのかもしれないが、これを何度も何度もやられると、かえって重要な情報が頭に入らない。ことに第一章がひどい。ここで挫折する読者も多いのではないかと心配になる。

小は固有名詞の表記。原音に忠実に、と思ってしまうのだろうけど、すでに定着したカルサヴィナ(なしいカルサーヴィナ)、シャリアピン、カンディンスキー、ネヴァの表記をいちいち「コルサーヴィナ」、「シャリャーピン」、「カンディンスキイ」、「ニーヴァ」と表記するのはあまりいいことではないのでは。でもなんでカンディンスキーは「カンディンスキイ」なのにドストエフスキーは「ドストエフスキー」なんだろう……。Гостиный дворはなんで「ゴスチーンヌイ・ドボール」なんだろう……。綴りは「в」なのだから「ドヴォール」では? 本書では「ヴ」表記そのものは採用しているはず。原語に忠実というのなら、フランス語もcypreは「シプレー→シープル」、Crêpe de chineは「クレープ・デ・シン→クレープ・ド・シーヌ」、Antoine Chirisは「アントワン・シリス→アントワーヌ・シリス」と表記していただきたい。香水の名前に「」がついてたりついてなかったりするのも気になる。

そして一見些末なれど爆弾級の問題は、史実の誤認(p.268)。シャネル№19はエルネスト・ボーの作品ではない。彼の死後、1970年にパルファム・シャネルが発売したアンリ・ロベールの調香による作品だ。これは『白鳥の湖』をグラズノフの作品と言ってしまうのと同じくらい大きな間違いなので、増刷を待つまでもなく、訂正の紙を入れてください>群像社

個人的な不満を言えば、第二次世界大戦前後の歴史にも多少なりとも触れてから本書を締めくくってほしかった。パルファム・シャネルは№5の後、大戦中にユダヤ商人と商標でモメてナチスにすり寄った大黒歴史があるが、この間、ボーはバムファム・シャネルに在籍している。亡命ロシア人ボーがどのように身を処したのかは、彼の生涯を語る上では欠かせない部分なのではないだろうか。こういう大事なところをさくっとスルーしちゃうあたりも、史学の人間としてはひっかかる。著者はそもそも文学研究が専門なのは分かるのだが、歴史について書くと決めた以上、もうちょっと何とかしてほしい。

余裕があれば、やはりソ連からの亡命者である現代の名調香師ソフィア・グロスマンにも言及してくれたら嬉しかったです。以前大野さんにお目にかかった時にグロスマンのことはお話ししたので大野さんも知らないことではないと思うけど……。その他にもスラヴ語の名前を持っている調香師はけっこういるので、彼らのうちにロシア帝国・ソ連の出身者がいれば、それについても研究して欲しかったです。そういうところに目が行きとどいていたらスゴイ本になったと個人的には思ったり……

重複や余分な部分を整えれば、三割程度は量が減るが、その分論旨は明快になる。固有名詞等、シロートにも一目で分かるところに問題があると、「この本、我々シロートには分からないところも実はごまかしだらけだったりしないのだろうか」という不信感を読者に与えかねない。どれも克服できないほど致命的な問題ではないはず。私が姑根性であれこれあげつらっているように思えるかもしれないが、こういうチェックはまともな研究書には絶対に必要なことで、出版前にすべきことなのだ。群像社の島田さんの仕事だ。せっかくいい内容の本なのだから、ちゃんと仕事してよ島田さん! 大野さんの業績として一生残る第一著作がこういう形で世に出てしまったことが悔やまれる。ああ……タイムマシンがあればなあ……orz

付記:あ、そうだ、ラレ社の帳簿を調査したらラレ№1の配合の手がかりになるかも。香料や化学薬品の購入量を調べるわけですよ。この間『マッサン』でも「帳簿を見とったらウイスキーを作ってるだろうと分かった」っていうセリフがありましたね。帝政ロシア時代の奢侈品の会社の帳簿なんて残ってないかなあ……。でもいちおう存在確認の調査をする価値はあるのでは。

2015年2月11日 (水)

R-1ぐらんぷり2015

今年のR-1ぐらんぷりはレベル高かったような気が。それとも単に私の好みに合っただけかもしれないけど。

ワタシ的には厚切りジェイソンと馬場園だなあ。でも優勝したじゅんいちダビッドソンは、単に本田圭祐の物まねで一人コントをやっているだけじゃなくて、本田の言動をコントのシチュエーション中にうまいとこ組み込んでギャップの笑いと次の瞬間への期待感を引き出し続けて最後まで持ってくワザが光ったので、結果に文句はないです。本田にキレられてもしれないぞ(笑)。

厚切りジェイソンは、日本人なら誰もが一度はちらっと思ったことがあるかないかの限りなく無意識なネタに、正面からいちいち全力でツッコミを入れてこられると面白さがインフレーション起こすわw でもこれもやっぱり、お勉強系クイズ番組を見がちな「意識高い系」ウケ止まりにならなければいいなあという、ちょっとした危機感つき。

馬場園はくすぐり程度のネタとナンセンス度をすこ~しずつ集積してくるじわじわ系の笑いできたせいか、やはいこういう、あからさまに点数や順位がものを言う世界では難しいかあ……

次回は是非エレキテルにバラ出ていただくという方向でw

2015年2月 2日 (月)

日本・ロシア活字文化比較講話 (クセニア・レシチェンコ)

想定外のレベルの低いぐだぐだ話でがっかりでした……。日露友好という趣旨で何かイベントをやるのはいいんですが、それだったら会員の中だけでお茶飲み話でよいのでは。まがりなりにも「講話」と銘打って外部の人も有料で入場させる以上、最低限のレベルは確保しないとダメでしょう。

日本・ロシア活字文化比較講話
講師:クセニア・レシチェンコ 法政大学国際日本学インスティチュート博士課程

結局、「活字文化」についての話はほとんどなく、日本の電車内や図書館のポスターが「マンガ的でビジュアル重視」であるところをあげつらったり、マンガは娯楽的だからダメ、みたいな方向に流れる。話を聴いている限り、彼女はそもそもマンガの「読み方」というものを知らない。私は今までオタクのロシア人と何人も会ってきたけど、マンガの読み方をちゃんと分かってる人ばかりでしたよ。このレシチェンコさんみたいな人は決してロシア人の感性の平均ではないと思う。ロシアと日本の感性の違いの問題ではなくて、彼女は絵画的なものから情報や情動を読み取る力が極端に弱い人であると感じた。

「将来の夢はロシアで江戸の文学についての講義を持つこと」と言うが……現在、江戸時代を代表する「文学」と受け取られているものの多くが戯作か芝居の台本だよね。今でいうマンガやアニメに相当する大衆娯楽。現代のビジュアル重視大衆娯楽は否定して、江戸時代のビジュアル重視大衆娯楽は称賛するというダブルスタンダードについてはどう思っているのだろうか(質問はしたけど、自覚がないらしく話はかみ合わず)。大衆娯楽に対する軽蔑感を持った人が、果たして江戸の文化のどこに魅力を感じているのだろうか。

ロシア・ソ連にはもともと、「子供向けの娯楽」のフリをして社会風刺をやるという高度なワザがある。一見しょうもない荒唐無稽な戯画を通じて二重、三重の意味をやりとりする感性には長けているはずである。それを考えると、彼女の感性の偏りはなおさら危機感を感じる。まずその偏りや未熟さを自覚するところから始めないと、研究者としては立ち行かなくなるだろう。まだ若いうちにもっと厳しい研究環境に身を置いた方がいいんじゃないかなあ。今は多分、「日本語が上手なカワイ子ちゃん」というだけでチヤホヤしてくれる人が周囲にたくさんいるのだろう。いわゆる「下駄をはかせる」ってやつ。北大や東大にはロシアから恐ろしほど優秀な留学生が来る。そういう人たちの間で厳しく自分を省みないと、ほんとにただの「日本語が上手なお嬢ちゃん」から「日本語が上手なおばちゃん」になって終わっちゃう。他人事ながら心配でたまらん。

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