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2014年10月10日 (金)

ハルキストはノーベル文学賞の夢を見るか?

仏作家にノーベル文学賞=パトリック・モディアノ氏

 【ロンドン時事】スウェーデン・アカデミーは9日、2014年のノーベル文学賞をフランスの作家パトリック・モディアノ氏(69)に授与すると発表した。授賞理由は「把握し難い人間の運命を再現し、占領下の生活を描いた記憶の芸術」を創造した点。村上春樹さんは受賞を逃した。

まあいいじゃないですか。私はノーベル文学賞を取るかどうかというのはさほど重要なことではないと思っている。というか、文学を「役に立つもの」に分類して賞をあげちゃうよっていうノーベル賞の姿勢そのものが気に入らない。文学なんてものは役に立たない。役に立たないけど、どうしても人類の間からその存在を消すことができない。だからこそ意義があるのであって、「役に立つ」って分類されること自体になんか文学に対する侮辱を薄く感じるのは私だけですか?

私は村上春樹作品を語らない。称賛もしない。かといって、嫌っているとか悪口を言うことがカッコイイと思ってる人たちの一員でもない。だったら何故、どれを読んだのかさえ人に知られないようにしているのかというと、私は村上作品そのものじゃなくて、村上春樹を我勝ちに語りたがる人たちが好きじゃないからだ。

村上作品を称賛する人がキライ、ってことじゃないので誤解のないよう念のため。「ことさらに、我勝ちに語りたがる人」がイヤなのよ。

本当に好きで好きでたまらず、気がついたら熱く語っちゃってたよ(赤面)、なんていうのなら大いによろしいと思う。だけど、エヴァンゲリオンや村上作品って、「作品を語ることによって自分を表現すしたい人、作品を語ってる自分にうっとりする人」が多すぎないか? 何故か村上作品を語ることによって、それを語っちゃってる自分もムラカミオーラや権威をまとい、自分もその価値を身につけたかのような態度になっちゃう人。

そもそも、「小説を語ること、評すること」によって、その作品自体を語るのではなく、自分を語っちゃってる人、自分を表現したい人って、ネット書評の増加とともにどんどん増えしまっている。評論における自己表現って、自我を捨てる勢いでその作品を分析し語ることによって、結果として無意識的な自分が表現されてしまいました、という形で実現されるべきものであって、自分を表現したい人がツールとして使うべきものではないはず。しかしエヴァや村上作品は、作品の性質の故に、他人の才能に寄りかかって自分を表現した気になりたい人たちが群がって来やすい。そういう作品を評する時は、この変な群衆心理みたいなものに巻き込まれずに、距離を置いて観察することをまず心がけないと、作品そのものを見る目も曇ってしまいかねない。

まあこの手の寄りかかり自己表現の語り手に一番メイワクしているのは、本当に村上作品を愛している人たちだろうから、私ごときがごちゃごちゃ言うのはもうやめよう。

いずれにしても、私は「ノーベル文学賞を取るかどうか」自体はさほど重要なことだと思っていない。真のハルキストの皆様、キニスンナ。あれもこれも。

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