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2014年4月17日 (木)

テルミドール前夜

尊敬されていた革命家が、自分がいかに私怨ではなく正義であり、敵がいかに社会悪そのものであるかについて長弁舌をふるい始める時、それ自体が革命の終焉の徴であり、反革命の原因になる。

まあ政治という行い自体が男性原理的なものなので、殲滅戦にならざるを得ない面はあるだろう。しかし人類には芸術、芸事、創作という世界があって、そこでは「どうしても受け入れがたいものを受け入れる、つまりそれと戦わないことによって、その影響から逃れる」というマッチョじゃない態度を取ることが可能だ。漢らしくきっぱりと女々しくいられる。

人間にはどうしたって暗黒面はある。自分を完全に正義でクリーンなものにしようとすると、その暗黒面を「敵」に投影することなにってしまいがちだ。そうなるよりは、自分の中に黒い部分もあるし、マッチョ野郎にも女々しい側面があり、フェミニズム論者にも男性性の面があることを認めちゃったほうが、行動は他人に対して過酷なものではなくなるんではないかと思う。

停戦は恥ではないし、敵を殲滅しないのは敗北ではない。そもそも敵と思っている者の最もキライな部分は、どんなに否定しても自分の中にあるのだから、それと戦い続けて心を奪われるよりは、認めちゃってラクになって、その分労力を創造的な活動に向けたほうがいいよね。

憎み過ぎるのは恋をしているのと同じだ、と「アントンと清姫」に書いたのは、東欧文学と関わり続けた後だった。我々は歴史を見て、その中に自分の取るべき道を見ることができる。

殲滅戦が続くのだったら、自分はナニ派でもない身の証しを立てるため、その場から身を引くこともできる。私は小説が書きたいのだし、その書いたものそのものを認められたいのであって、ナニ派についたら有利とか、面倒なんだよ。そういうのがイヤだから、アマチュア時代にもサークル的なものにはいっさい関わらなかったんだよ。

何の話かって? いや、ただ、最近の九条を曲げようとする政治とか、ウクライナ情勢とかを見てるうちに何となく思ったことを書いただけです。人類、少しは進歩してもいいんじゃないかと思うんだけどな。最高指導者から近所のおじさん、おばさんに至るまで、今現在の目先の政治とか、半径数メートルのご近所トラブルからパラダイム・シフトするために、是非、SFを読んでいただきたく。

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