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2014年4月27日 (日)

SF作家クラブの退会も視野に入れています

もう「大森望がSF作家クラブからリジェクトされた件」自体は秘密でもなんでもなく知れ渡った事実なのでしらぱっくれたりはしない。が、総会で話された内容自体は外で語るべき性質のものではない、というマナーには従うので、幾分奥歯にものがはさまったような言い方にはなるかもしれない。そこいらへんは、もっとあからさまにぶっちゃけている人たちの記述で脳内補完していただきたい。

SF作家クラブの入会既定として、SF大賞を受賞した者は推薦なしに入会審議にかけらにれる(もちろん本人の受諾・拒否が最優先)というのがある。今回、第34回日本SF大賞において、大森望責任編集のアンソロジー『NOVA』が特別賞を受賞したので、大森さんも推薦なしに入会を検討する対象となった。いつもはシャンシャン総会だが、今回はガチンコの討論と投票になってしまった。一部に(いやかなり大きな勢力ですが)、テクスチュアル・ハラスメント裁判の経緯とその背景を理由として、大森さんの入会に反対する人々がいたからである。私はこのテクハラ裁判は発生当時から知っており、基本姿勢としては小谷さんに同意している。ただ、その主張のし方には男性原理的なものを感じており、必ずしも全面的に賛成しているわけではない。C.G.ユング生前当時から言われていたことだが、フェミニズムの活動家が往々にして無意識的にマッチョに行動する問題がある、というのは私も感じており、この点では一歩引いた位置から考えたいと思っている。

そしてまた、たとえ大森さんがそうした「女性の著作権弾圧、文筆上の人格のはく奪」の側に加担(一部の主張によれば首謀)していたとしても、芸術・創作の世界でその価値観を弾圧する気はない。ましてや、大森さんのSF界での活躍、貢献は否定しようもない事実であり、その能力に疑いはないのだから、SF作家クラブに受け入れるのは当然であると思っている。

近年のSF作家クラブはもはや単なる「仲良しクラブ」ではなく、SFの発展、普及において公的な位置を占める団体となっている以上、内部に多様な価値観があるのは当然ではないだろうか。ただ一つの信念のためにみんなで結束する団体ではなく、時には相容れない主張もありながら、個々の会員がSFの発展、普及に貢献する団体であるはずだと私は考えている。

SF作家クラブにそのような公的な性質を備えさせたのは、何と言っても去年の作家クラブ50周年関係の諸イベント、出版であろう。その中でも特に、第二回国際SFシンポジウムは、SF作家クラブの公的な性質を決定づけたイベントではなかったかと思う。会場はガラガラだったのではという誤解が一部には流布しているが、物理的に会場には来られなかった数千人の視聴者がニコニコ動画の生中継でそれを試聴しており、実際には「シンポジウム」と呼ばれるたいていのイベントよりははるかに成功だったという事実がある。SF者を名乗っておきながら物理的に会場に来た人しかカウントしてないのは情けないっすよ。で、このイベントを企画・立案して各方面に交渉し、成功に導いたのは他ならぬ巽孝之・小谷真理の両氏であった。SF作家クラブに公的な性質を決定的に導入しておきながら、自分たちには受け入れられない価値観を排除するのって、どうなのかと思わずにはいられない。これをやるなら、SF作家クラブは気に入らない人リジェクトもアリの内輪の仲良しサークルにしておくべきだったのではないだろうか。

もちろん、重ねて言うが、テクスチュアル・ハラスメント裁判で示された小谷・巽側の思想に異論はない。この件に関しては、基本的に私が経っているのは小谷・巽側なので、その点は誤解のないよう。極私的には小谷、巽両氏は大好きだし、憧れがある。

私は総会以前から、思想的には小谷・巽側には立つものの、入会審議においては大森さんの入会を支持すると作家クラブ内で表明していたし、当日も賛成に投票した。当日、投票の実数においては賛成票のほうが多かったのの、「有効投票の三分の二」という規定にギリギリで届かなかったために否決となってしまったのですけれどもね、もうね、もろに「ルイ十六世の処刑」でしたよ。これはきわめて残念なことだと言わずにはいられない。

この決定を成したSF作家クラブに留まるかどうか、正直、悩んでいる。もう一方で、SFシンポジウムのように、「団体だからこそできること」もあり、大半が内向型なのにがんばってそういう会を維持、運営してゆこうと多くの会員が努力していることを考えると、自分だけメンドクセーからといってバックレるのは違うんじゃないかとも思うのだ。

私はダレ派でもねえんだよ。ただ小説が書きたいんだよ。そして、派閥とか関係なく評価されたいんだよ。私が一番大事なのは、自分自身でさえない。私が命と引き換えにする覚悟で腹を痛めて産んだ自分の子供たち(作品)だ。しかし、どこかの団体に所属していることが何らかの派閥のレッテルになり、それが執筆の妨げになるんだったら、そんな団体なんかは捨てて自由になりたいという気持ちがある。だがもう一方で、「団体だからこそできること」に貢献したいという気持ちもある。そこに葛藤がある。

実を言うと、私自身、かつて「こいつ生意気だし気に入らねえ」という理由である方面から反対を受け、入会を二度ほどリジェクトされているという過去がある。それを取り成してくれたのが巽・小谷両氏であった。前述のSFシンポジウムやアンソロジー、乱歩賞等の経緯からいって、私の入会がSF作家クラブにとってマイナス要因であったとは思っていない。それを考えると、果たして他の入会を拒否された人物も本当にマイナス要因だったのだろうかと疑問に思う。

目下のところ、身の振り方については保留中だが……どうしたもんですかねえ。は~(嘆)。

いや~、でも、こうなっちゃうと大森さんのダーク・ヒーローとしての価値はいっそう高まっちゃうかもですね~。入会反対派の活動によって一番得したのは大森さんだと思う。これは得ようと思って得られる地位じゃないし、正直ちょっと羨ましい(笑)。

2014年4月17日 (木)

テルミドール前夜

尊敬されていた革命家が、自分がいかに私怨ではなく正義であり、敵がいかに社会悪そのものであるかについて長弁舌をふるい始める時、それ自体が革命の終焉の徴であり、反革命の原因になる。

まあ政治という行い自体が男性原理的なものなので、殲滅戦にならざるを得ない面はあるだろう。しかし人類には芸術、芸事、創作という世界があって、そこでは「どうしても受け入れがたいものを受け入れる、つまりそれと戦わないことによって、その影響から逃れる」というマッチョじゃない態度を取ることが可能だ。漢らしくきっぱりと女々しくいられる。

人間にはどうしたって暗黒面はある。自分を完全に正義でクリーンなものにしようとすると、その暗黒面を「敵」に投影することなにってしまいがちだ。そうなるよりは、自分の中に黒い部分もあるし、マッチョ野郎にも女々しい側面があり、フェミニズム論者にも男性性の面があることを認めちゃったほうが、行動は他人に対して過酷なものではなくなるんではないかと思う。

停戦は恥ではないし、敵を殲滅しないのは敗北ではない。そもそも敵と思っている者の最もキライな部分は、どんなに否定しても自分の中にあるのだから、それと戦い続けて心を奪われるよりは、認めちゃってラクになって、その分労力を創造的な活動に向けたほうがいいよね。

憎み過ぎるのは恋をしているのと同じだ、と「アントンと清姫」に書いたのは、東欧文学と関わり続けた後だった。我々は歴史を見て、その中に自分の取るべき道を見ることができる。

殲滅戦が続くのだったら、自分はナニ派でもない身の証しを立てるため、その場から身を引くこともできる。私は小説が書きたいのだし、その書いたものそのものを認められたいのであって、ナニ派についたら有利とか、面倒なんだよ。そういうのがイヤだから、アマチュア時代にもサークル的なものにはいっさい関わらなかったんだよ。

何の話かって? いや、ただ、最近の九条を曲げようとする政治とか、ウクライナ情勢とかを見てるうちに何となく思ったことを書いただけです。人類、少しは進歩してもいいんじゃないかと思うんだけどな。最高指導者から近所のおじさん、おばさんに至るまで、今現在の目先の政治とか、半径数メートルのご近所トラブルからパラダイム・シフトするために、是非、SFを読んでいただきたく。

2014年4月 8日 (火)

鮎川哲也と芸術と昭和

最近、Kindle化された鮎川哲也作品を読んでいる。

鮎川作品は飲み屋のねえちゃんとデキちゃって妻を殺したりする作品が多いので、その昔、潔癖な乙女だった私はほとんど読まなかった。最近ちょっとしたことで読み始めたのだが、語り口に騙されて意外に単純なトリックが見抜けなかったり、昔は思いもしなかったところに魅力があることを改めて発見したりしている。

乙女だったころは淫靡に思えた作品も、今読むと、エロいシーンをダイレクトに描かない、犯人側にも被害者側にも人としての心配りがある等、むしろ高潔に感じる。芸術、芸能に造詣が深くて、単に「教養がある」というレベルではなく、本当に芸術を愛していて心底それが身についているのも魅力。音楽関係、特にクラシックの知識や解釈、演奏を表現する時の雰囲気も奥深くて、愛好家のメンタリティなんかは、クラヲタとしては恥ずかしくなるくらいに描きられてしまっている。そうそう、クラヲタってこうなんだよね~(赤面)。

そして、かつては想像だにしなかったことが! 「昭和後期っぽさ」がものすごく魅力的なのだ! もちろん単に、作中に登場する昭和な事物が魅力的というだけではない。やっぱりあの作品、あの作風の中に描きこまれた昭和だからこその魅力みたいなものがすんごくあるのだ。電話が呼び出しの黒電話という事実だけではなくて、それを使って和菓子屋さん経由で証人を呼び出したりする捜査の過程なんかに、何とも言えない味わいがあるのよねえ。

鮎川作品をこんなふうに味わえるようになるとは、歳を取ったり時代が変わったりするのも悪くないもんだな~と思った次第。

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