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2014年2月10日 (月)

「あ、それ私は書かないから、自分の小説にしちゃっていいよ」

偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけあまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏
2014.02.08(土)  伊東 乾

はい、楽典理論の「課題のレアリザシオン」を最初歩で挫折した私が来ましたよw

この記事、緊急に書かされたのだろうから、全然整理の行き届いていない文章のまま公開せざるを得なかったことは気の毒だと思うが、不用意に『あまちゃん』とかあげつらうのやめようよ。「売れない現代音楽」のルサンチマンにしか見えん。こういうことやってると現代音楽の品位自体が落ちる。

それはともかく、記者会見での新垣さんの発言の主旨が今一つ掴めなかった私だが、なるほど、楽典的な「課題の実施」や「現代音楽の作曲者としての『自作』とは何か」を補助線にしてもらうと理解できる。その点ではこの記事には感謝したい。

「課題の実施」とは真逆の形だが、確かに私も、自分じゃ書かない種類の小説のアイディアを人に話して、それをあげてしまうことはある。それは高野史緒という作家の作風でもないし、自分の名前でそれを発表したいとは思わないので、著作権を主張したり、自分の名前を出すことなどカケラたりとも考えない。

でももし、特定の作家がそういう私が投げたアイディアを小器用に小説に仕立て上げて変に人気が出てしまったら、本当は私なしでは「作家」と呼べないような人を読者さんたちが崇拝するようになってしまったら、やっぱりこれはまずいわ、ちゃんと読者さんたちの前に事実を明らかにして謝罪しないといけない、と思うだろう。謝罪して自分はそこから降りるけれど、自分がネタを提供した小説を自作と呼んでくれ、とは思わない。もしその「作家と呼ばれた人」を世間が何らかの形でこれからも認めるのなら反対はしないが、でもこれまでの事実は明かして私は降りる、と。そういうふうに想像すると、今回の事態はよく分かった。

しかし逆に、小説とは全く関係ない雑談の中から得たアイディアを自分の作品に取り入れた時、「それ私が出したアイディアだよね?!」と言われたこともある。「だから私の名前も出して」「だからなんかちょーだい」という文脈で。

あらゆる創作物は先例や他人のアイディアから影響を受けているのであって、創り手の100%完全オリジナルはあり得ないし、100%完全オリジナルである必要もないと思っている。私は「ここまではオリジナル創作としてアリ、ここからあっちはナシ!」という厳密な線引きは無いと思っているが、その厳密でない線引きの両側の「区別」はあると思っている。

しかし新垣さんの理解できない点は、「こっち側」の仕事を大切に思っているのなら、なんで「あっち側」でかくも長い間小遣い稼ぎをしちゃったのかということだ。音楽を商売と割り切って「あっち側」で商業音楽をやって生計を立てるのはアリだと思う。しかし、カネにはならないかもしれないが真に「自作」であり、真摯に聴き手に差し出せる「こっち側」の志を持ちつつ、いつまでもだらだらと「あっち側」にも関わっていたのか。やっぱりカネなのか、偽作曲家の「自殺する」の脅しに負けたのか……。どっちもなんか納得できない。「一人の理想の恋人を崇拝しつつ、次から次へと他の女をコマして捨てる」みたいな感じだったのかなあ。

新垣さんの決意と、記者会見での誠意ある態度には、私も敬意を示したい。しかし、どうしてもまだ、彼の創作者としての「身持ちの正しさ」や真摯さに対する疑問は払しょくできない。聴き手に対する誠意はなかったのだろうか。それとも、自分のオリジナル芸術作品に高い評価をくれない愚衆に対する復讐だったのだろうか。もっと多くの情報を、時間をかけて消化してゆくしかないと思う。

……と、商業音楽の極北であるフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドを聴きながら書いてたことに今気づいた 低俗ですゴメンね。上記は「作り手の立場」として書いたが、「聞く側の立場」として言えば、お芸術かチャラい商品かとか、どっちでもいいんですけどね。聴いて「いい」と思いさえすれば。でももし創り手が「この程度のやっつけ仕事でも、お前らはお芸術と銘打ってさし出せばありがたがって拝聴するんだろ」と思っていたとすれば、それは許していいとは思っていない。

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コメント

作家先生の御高説、拝聴させていただきました。たいへん御立派でいらっしゃいますね。

では質問させてください。

小説は作家と編集者と相談しながら、こうしたほうが面白い、ああしたほうが受ける、と、しながら造ってますよね? それと、この佐村河内-新垣のダッグは同じなのではないですか? 

違うというのなら、何が違うのか御説明下さい。御立派な御意見、お待ちしております。

*鬼天竺さんの投稿は特定の第三者を中傷する内容が含まれていたため、いったん削除し、関係者で協議の上編集、私のアカウントから再投稿しました。

ご質問の件、「基本的に違いはない。程度問題」ってことではないでしょうか? 効率や毎号のアンケートでの人気を重視する場(漫画とか代謝の速いエンタメジャンルとか)では、特に問題にならない方法でしょう。そのジャンルに興味がある人はみんなそんなの知ってて秘密でもなんでもないですし。

私個人に関して言えば、「編集者と協議して小説創る」はできないです。理由は、信念としてやらないとか、志を高く持っているとか以前に、「人にあれこれ言われると書けなくなっちゃう」からです。

私の執筆スタイルは、「私が機を織り終わるまでは、この部屋に入ってはいけません」の『夕鶴』方式オンリー。それじゃないと書けない。完パケ寸前のものを編集者にいきなり全文読んでもらうのであった……。著者校の段階で多少手を入れることはあります。

この方法だと、没になる時はまるごと全文没になっちゃうんでしょうねえ。もしそうなったらまた丸ごと他社に持って行くしかないでしょう。

長編、短編のすべてがハイリスクな夕鶴方式です。口を出されて投げちゃった作品もありますけど。

他の人が相談方式がいいというのなら、私もそれについて口を出すつもりはありません。

まあ、「職業」作家としては私のあり方が間違ってるんだろうなあ、とは思っています。

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