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2013年11月14日 (木)

おフランス版バイトテロか?

“容姿端麗なら良い席”で物議、仏レストランが客の外見で振り分け。

フランスで最近、客の容姿を判断した上で案内する席を決めているレストランの存在が明るみとなり、波紋を広げている。元店員の暴露によりわかった事実に、多くの人々が衝撃を受けているようだ。

このルールは、「ル・ジョルジュ」と同じ経営グループがルーブル美術館中庭で営業している「カフェ・マルリー」でも運用されているそうで、従業員採用にあたっても容姿はもちろん「30歳以上、身長約170センチ未満は断る」(米紙ニューヨーク・デイリーニュースより)といった基準が設けられていたという。こうしたイメージ戦略が突然広く知られてしまった経営者側は、さまざまなメディアからの問い合わせに対し、今のところ一切「コメントしていない」そうだ。

え~。この記事、どこまで信用できるんだろう? そもそも媒体が大衆向け週刊誌だしなあ。それにこういうことって、フランスではお高いレストランは昔からこうで、みんな「ちっ」と思いながらもあからさまに話題にならない微妙な社会悪みたいなものだったのでは? ディアギレフが初めてバレエ・リュスのパリ公演をした時も、バルコニー席の最前列には事前に選んだパリ中の美女を並べてたし。おフランスっていうのはもともと「そういうところ」なのだ。

私は高級店なんてほとんど知らないからそういうところの話はさくっとスルー(笑)。ただ、行ったことがある範囲ではマルリーは相当アレだろうな、とは思っていた。初めて行った時(94年か95年かそこらへん)すでに、ギャルソンがハンパない美青年ばかりだった時点でアレだなあとすぐ分かった。むしろ、21世紀になったら女性の従業員がいて、「おお、政治的に正しくしようとしている!」とビックリした(笑)。まあ、みんなモデルのような美人ばかりですけど。でもみなさんちゃんと有能にお仕事なさってましたし、イミフに丸パンを余分にサービスしてくれるお兄ちゃんとかもいて(持って帰る貧乏性なわしw)、普通にフレンドリーなフランスのレストランだと思っていた。まあフツウっていっても値段は普通じゃないですけどね。ぶっちゃけ、値段ほどのものが出てくるとは思えず、コスパは良くない。大半はショバ代ですよ、ショバ代。正直、ルーヴル地下のフードコートのほうが面白いしコスパ含めて満足する。ただ、やっぱりマルリーは場所と内装がすごくいいので(奥の部屋からはルーヴルの彫刻部門が見られるのだ!)、覚悟の上でショバ代払いに行っちゃったりするのですが。まあそこはホラ、所詮観光客なので……coldsweats01

さらにこの記事の信用ならんと思うところは、こういう「元従業員」の話がどこまで本当か、というところにもある。退職してから暴露発言ってことは、円満退職じゃなくて、職場に恨みを残しているような手合いではないかと思う。元職場を陥れるため、話にゲタを履かせている可能性は高いんじゃないだろうか。

私はマルリーではいい席にも案内されるし、そうでもない席にも案内される。あそこは基本、食事か喫茶か聞かれて、喫茶なら入ってすぐのレトロ重厚な部屋、食事なら奥のモダンでシンプルなサロンに案内される。奥のサロンはルーヴルの中から丸見えの席があるので、マルリー的にはそういうところが「容姿端麗の客を案内すべきいい席」ということになるだろう。でも私でさえそういう席に案内されるのよね。めいっぱい自惚れても私が容姿で選ばれているとは思えないので、それって単に、日本のファミレスでもやってる「客入ってる」アピールに過ぎないんじゃないだろうかと思うのだ。

さらに考えれば、レストラン側としては、窓際の目立つ席にでっぷり太った人たちばかりが並んじゃったら困る、くらいのことは心配しても不思議ではない。日本のファミレスでも、もし商談のビジネスマンもウェルカムだったとしても、窓際に子連れのファミリー層ばかりが並んじゃったらここを商談に使おうと思うビジネスマンはいなくなるかもしれないし、逆に窓際にスーツのビジネスパースンがずらっと並んじゃったら、ファミリー層が客離れして大打撃、なんてことになるかもしれないので、窓際の席への案内は配分を考えているという。ましてや、「イメージ」の比重が大きいパリの観光地ど真ん中レストラン、そりゃ日本のファミレスよりももっと踏み込んだところまで気にしても不思議ではないのでは。解雇等で元職場に恨みのある元従業員がそれを針小棒大に「暴露」して見せた可能性はかなり高いんじゃないだろうか。

おフランス版バイトテロか?と思わんでもない。いずれにしても、トータルとしては「フランスで大きな波紋を広げている」というほどのこのはないんなじゃないかと私は見ている。

そういやSF大会で広島に行ったら、駅ビルのフードコートの一隅が全部カウンター式のお好み焼き屋で、狭い通路の両側に客が全員背中向けて座ってて、ヨソ者には入り込めない激しいプレッシャーを感じたなあ。まあ実際には勇気を振り絞ってカウンターについたら、きっと親切にいろいろ教えてくれるんだろうなあとは思ったけど、チキンなので結局食べに行けなかった……。庶民的なら庶民的で、また別なハードルがあるなあsweat02

2013年11月 6日 (水)

痛ソユーズ(まであと一歩)

A6d6bcad4da13825420f6a7067007850Russia sending Sochi Olympics torch into space

写真はリンク先からの借り物。

若田光一さんが乗る7日打ち上げのソユーズ、ソチ・オリンピックの聖火トーチを宇宙に持って行くとかで話題になってますね(もちろんISSもソユーズも火気厳禁なので持って行くのはトーチだけ)。ロシアの宇宙飛行士がOVAでISSの外に持ち出して「リアル宇宙に行ってきたトーチ」にして、来週帰還するソユーズでアメリカとヨーロッパ宇宙開発機構の宇宙飛行士が持ち帰って、来年の開会式の際、聖火点火に使うとか。今回の聖火リレーは北極点も回ってるし、ロシア、国力顕示しまくってますね。

で、そのソユーズですが……

見た目もこんなです(笑)。

おお、痛ソユーズまであと一歩じゃないですか(笑)。まずはポケモンソユーズあたりから始めてみてはいかがでしょう? がんばれロシア宇宙庁。解脱はすぐそこだ(笑)。

2013年11月 2日 (土)

露文学会プレシンポ「すべての言葉は翻訳である」と、現代露文翻訳に感じた重大な問題点

11月1日、銀杏のニオイ漂う東京大学本郷キャンパス(でも近年、昔よりニオイは減った気がする)に、日本ロシア文学会2013年度第63回定例総会・研究発表会プレシンポジウム 「すべての言葉は翻訳である  ——現代ロシア文学 翻訳の最前線から—— 」を聴講しに行きました。

20131101写真は左から

中村唯史(山形大学。ヴィクトル・ペレーヴィン等)
松下隆志(北海道大学大学院。ウラジーミル・ソローキン等)
奈倉有里(東京大学大学院。ミハイル・シーシキン等)
高柳聡子(早稲田大学。タチヤーナ・トルスタヤ等)
上田洋子(早稲田大学他。ジギズムンド・クルジジャノフスキイ等)
毛利公美(一橋大学他。グリゴリー・オステル等)
坂庭淳史(早稲田大学。アルセーニ・タルコフスキー等)
前田和泉(東京外国語大学。リュドミラ・ウリツカヤ等)
司会・コーディネーター:沼野恭子(東京外国語大学。リュドミラ・ペトルシェフスカヤ『私のいた場所』等)

また写真には写ってませんが、この他に、コメンテーターとして乗松亨平(東京大学)、ゲストコメンテーターに松永美穂(早稲田大学・ドイツ文学) の各氏が参加。その他、出版社のそっち方面担当者からのコメントがありました。

内容は……まあこの人数をみていただければ想像はつくかと思いますが、自分の翻訳した作家の紹介と朗読少々を持ち時間一人10分ほどでするのが限界で、討論や質疑応答まではできなかったんですが、内容は一般読者向けに徹していて、ここで取り上げられた作品を一冊でも読んだことのある読者、あるいはちょっと現代ロシア文学に興味を持ちつつある未来の読者にとっては、非常に興味深くてお得感ある内容であったと思います。

ただ、歴史学の人間として、そして現役の作家としては、どうしても気になる点がある。ここで取り上げられた作家の全員が、何らかの形で「反体制派」という看板をゲットできた「勝ち組」であること。唯一の例外はオステルだが、彼は児童文学の作家であり、ソ連や現代ロシアに共通する社会問題については、やんわりと「ユーモア」で済む扱いをしている。基本的に今、日本で紹介されるためには「ソ連時代は反体制派で不遇でした」的な衣装をまとっているか、ソ連崩壊以降に本格的に創作を始めた作家でないと紹介されないってこと。

私は自分のロシア編アンソロジーにはソ連時代に社会的に認められていた作家も入れるつもりでいる(一編は井上と翻訳中)。本当に時代に関わらず文学としての価値を持つ作品は、たとえ政治体制が変わっても読まれ続けているし、これからもそうであるべきではなかろうか。フランス革命で王制が倒されてもラシーヌは読み継がれているわけだし、日本文学でも三島由紀夫なんていうアレな人がちゃんと評価され続けているわけでしょ? ロシア文学に関しても、ソ連崩壊後にロープシンやショーロホフの価値の引き下げをしないのなら、他の革命派、体制派の作家に対してもそれはされないはず。なのに何故、ソ連崩壊時に政治的な立場を失った才能ある作家を評価したり、再発見したりしようとしないのか? ある編集者は「確かに、『反体制派』みたいな『つかみ』がないと(商品としては)売りにくい」と正直に認めていたけれど、ってことは、翻訳する露文の人たちも、純粋に作品本位で翻訳する作品を選んでいるとは限らなくて、「商売としての成功」あるいは「自分の業績としての成功」を優先した作品選び、作家選びになっていないだろうか? 絶対にそうなっていないと最後の審判の時、堂々と言えますか?

本当作品本位で選んでいるのなら、「ソ連崩壊で失脚して今は忘れられた作家になってしまったけれど、作品自体は非常に優れている」という作家の再発見的な翻訳だってあるはずなのに、それがまったく無い。それって犯体制派レッテルゲットな「勝ち組」でない作家、作品を弾圧していないだろうか? それって検閲があったソ連時代と、結果としては同じことをやってないだろうか?

当のロシアではソ連的なものをひきずった芸術に対して、もしかしたら今でもわだかまりはあるかもしれない。評価しにくい雰囲気もあるかもしれない。しかし、だからこそ、それがない我々外国の者たちが真に作品本位で体制派、反体制派関係なく評価すべきではないのだろうか。

ロシアの作品がコンスタントに紹介されるのはいいことだが、どうも「現代露文翻訳、充実してきてる~note」と単純に喜んでいいのかどうか、露文の中の人は今一度よぉ~く考えてほしいことです。

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