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2013年8月11日 (日)

『風立ちぬ』を見てきた

いや、締め切りが~!とかあるのは重々承知でございますが、エッセイに求められるネタがどんどんかぶってきて、ちょっと整理するのにリセットしないと……とかいろいろ言い訳。けれど外は実測値38℃。体感温度は……知らない。いや、知りたくない……。この超くそ暑い中、諸般の事情によって六本木に。一人だったら行く気力なかったわ~。夫にしがみついてどうにか外出。

正直『風立ちぬ』は宮崎アニメの中では駄作に入るであろう。というか、映画としても厳しく言ったら駄作の範疇に入るか。正直、長かった……。映画をこんなに長く感じたのは久しぶりだ。

夢の中の出会いや自然の描写はすごくいい。けど、人物が書き割りのようだ。お上手な泣かせる系シチュエーションにうるっとくるところはあるものの、どこをとっても心の芯に手ごたえを感じない。書き割り。主人公はさしたる苦労もなく(少なくとも描かれず)たいした挫折もなく、かっこよく活躍して抜擢されて愛されて誰にも嫌われず次から次へと成果をあげて夢を叶える。登場人物たちが「人間として」の質感をもって感じられるのは、二郎と菜穂子の短い結婚生活のくだりだけ。どちらかというとこの二人より、黒川夫妻のほうが人間らしく感じるけど。

しかし、ゼロ戦作っといてパイロットたちが無駄死にして原爆落とされた後であるはずのラストシーンがあんなんでいいのかなあ。人の心って、何が起こってもそんなに強くてさわやかでいられるものなのだろうか。あんな涼しい顔で「一機も戻って来ませんでしたけどね」とか微笑まれてもなあ。サイコパスかよ。三週間前に原爆ドーム見てきただけに、なんか腹立つわ。戦争や戦後を描くのが面倒くさいから、手慣れた夢の場面で終わらせちゃったのだろうか。

あと、避暑地のあたりからかな、画質が変わるのも気になる(後半のほうがいい)。最初は何か意図があるのかと思ってたけど、そうでもないようだし……。なんか技術的な問題なのだろうか。

黒川夫人に「愛する人にきれいなところだけを見せていったのね」というセリフがあるが、これ、まんまこの映画に返すわ。ほんと、上手い具合にきれいなとこだけ見せていったね。ヴェネチアもだまくらかせるといいですね。

もっとも、人間の苦悩や世の悲劇を描く映画や小説、漫画はたくさんあるが、苦悩とか悲惨さなんか描かないで、人間は書き割りでいい、夢と自然と飛行機だけきれいに描ければいいんだ、という逆転の発想だったりして、とちょっと思わんでもない。それだったらスゴイと思う。めちゃめちゃ新機軸で、映画百有余年の常識を根底から覆す画期的な作品と言えるかもしれない。

ボロカスに言ったが、私はジブリ作品には水準以上のものを期待しているからこそそう言うのだ。今回はなんかおかしいよ。何のデムパを浴びちゃったんだ。まあ、長い歴史の中にはこういうこともあるのかもしれない。

宮崎くん、まだ風は吹いているかね?

六本木は38℃くらいあって、ほぼ無風でした(笑)。

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コメント

ある友達は「わざと感情等を描写しないことによって『描かないことを描く』作品では。リピーターが多いのはこの『描かないことを描く』レセプターを持った人がたくさんいるということでは」と好意的に言っているが(まあ要するに、私に対して「あなたは『描かないことを描く』が読み取れない人だ」という意味ですね)、しかし、「描かないことを描く」って、この作品に対して言う言葉じゃないと思うなあ。

この作品の「描かないことを描く」の部分って、「今までジブリ作品で学習してきたものを想起させる」という性質のものだと思う。それはシリーズものだからこそお決まりのセリフ一個で分かる登場人物の気持ちとか、類似作品がたくさんあるから「妹」「執事」「メガネ」という言葉を聞いただけで何となく「萌え」な感じを味わえるとか、そういうのと同じではなかろうか。つまり、先行のジブリ作品を「みんなで見てきた」という経験によりかかった「描かないことを描く」なんじゃないだろうかと思うわけですよ。

リピーターに働いているのは萌えと同じメカニズムだと思う。もっとも、それを肯定するというのなら、それはそれでよいのでは。私は関わらないことを選択するけど、別にそういう文化に対して戦おうとは思ってないです。

『紅の豚』も人生や戦争の本当に悲惨なことは何も描かなくて、登場人物の表現もそれこそ「戯画的」だったけど、あの深みとカタルシスと奥に秘めた悲哀がありましたわね。だからこそ、『風立ちぬ』は「なんじゃこりゃ?」と思わずはいられないのです。

メールをいただいた方に公開で回答します(メールを送って下さったご本人には了解済)。

なんちうか、いかなるクリエイターと言えども万能ではないと思うんですよ。何かしら「本懐」があり、本人の思惑とは違ったところが「本懐」と思われることもある(コナン・ドイルにおけるホームズもののような)。

だけど、トータルでいえば、結局は見る側、読む側の判断のほうが正しくて、クリエイター本人の思惑が間違ってるものなんじゃないかとも思います。何故なら、作品には作る側の「意識」だけではなく「無意識」が反映されていて、それは往々にして本人には分からない、だけど見る側・読む側の無意識はそれに呼応して、作った者の無意識をも解釈に含めるからです。

作った側が「こう見てね/読んでね」と言うことは出来る。だけど作った人は最高の解釈者ではないので、必ずしも正鵠を射ているとは限らない。何故なら、自分の無意識がどう反映されているか、すぐには分かるものではないからです(一生分からないこともけっこうあるかと)。

作品は「メッセージ」を伝えるための道具ではないと私は考えています。メッセージを伝えたいのなら「意見」でよろしい。なのに何故、「物語」なのか。作者本人ではない人物たちが動き回る「物語」というものは、作者にもコントロールしきれない無意識を反映するからじゃないんでしょうか。

まあそれでも、作る側が安全地帯に留まり続けて、見る側・読む側が「本懐」と思ってくれるに違いないものだけを作り続けるより、たとえ地雷を踏んででもやりたいことをやるために安全地帯を出てゆくことがあるほうがいいと私は思っています。だから、『風立ちぬ』がナニでも、作る前から「これは駄目だ」と判断して手をつけなかった、なんていうのより、はるかに評価できると思ってます。そういう意味では宮崎監督を評価します。めんどうな話ですみません。

で、この間ふと思ったんですけど、宮崎監督、「オヅヤス」したくなっちゃった、もしくは 以前から「オヅヤス」してみたかったのかも。

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