(今さらですが)『はだしのゲン』閉架問題について思う
はだしのゲン:閲覧制限 鳥取市立中央図書館、開架に移動 /鳥取
漫画「はだしのゲン」が図書館で閲覧制限されている問題で、事務室に別置きしていた鳥取市立中央図書館は22日、ゲンを一般書コーナーにあるコミックコーナーに移した。
同図書館によると、市民などから問い合わせが相次いだため、29日に予定していた職員会議を21日に急きょ開催。「市民の自由な論議の基になる材料を提供するのが図書館の役目」(西尾肇館長)などの理由から、コミックコーナーに置くことに決めた。22日現在、同図書館が保管するゲン5セットは全て貸し出されており、予約も入っているという。
正直、松江市の小学校で閉架に移動したというニュースが流れた時はさほど衝撃でもなかった。むしろ「ガッコなんてそんなもんだよな」と思った。ていうかもっと正直に言うと、今って学校図書室に漫画置いてあるんだ!っていうほうが衝撃だった罠(笑)。だって私が子供の頃(70~80年代)って、内容のいかんにかかわらず「学校図書館に漫画なんてとんでもない! もってのほか! 論外!」という時代だったからなあ。子供のいる世帯では知ってたことかもしれないけど、私は初めて知りました……。当時は学研の学習漫画シリーズが(宇宙とか人体とか)が巻末で必死に「漫画の学習的効用」みたいなことを訴えてたなあ。そうかあ、今は内容いかんでは図書室に漫画置くんだ……そうか……そうなのか……
と、まずそちらに一通り驚いたところで、『はだしのゲン』閉架問題について考える。前述の時代を生きてきたせいか、やはり学校で『はだしのゲン』を閉架にすることはさほど驚きではない。まあ確かにトラウマ漫画№1ですからねえ。暴力描写がどうこうというだけではなく、何しろ自分たちの親よりちょっと上の世代にこういう時代があった、日本にこういう歴史があったという事実自体が大衝撃なわけですから。
しかし70年代にはまだ上野公園や土浦駅前にも物乞いの傷痍軍人がいて(そして何割かはニセモノの悪い人たち)、親より年上の親戚はインパール作戦の生き残りだったりするので、2010年代に比べたら太平洋戦争は圧倒的な現実感を持っていた。70年代は藤圭子や和田アキ子が二十歳にならないうちに夜の酒場の歌を歌って始まり、指詰めや日本刀で切り合いのヤクザ映画も子供が見る時間に普通に放送し、少年漫画では不良が河原で集団決闘して血反吐吐いたり目玉が眼窩からはみ出してたりした時代。今考えるとワイルドというか、なんかもうむちゃくちゃというか、子供も結構えげつない暴力描写にさらされていた時代だった。『はだしのゲン』も、そういう時代背景があってこそ連載、発行できたのだろうと思う。今だったら、反戦や原爆の事実を伝える意義がどれほどあろうとも、そもそも連載できないだろうなあ。私が編集者で、今この漫画を持ってこられたら「さすがにこれはどうかと思う」と言わざるを得ない。これを出版する!と意気を見せる他社さん探しに走るとか、私家版として何とかできないかとか水面下では協力するかもしれないけど、オモテの商業出版としては無理と判断せざるを得ない。
同様に、現代の学校としては、閉架処置も「さもありなん」と思う。学校というのはそもそも、全てを期待し得る万能の存在ではない。むしろ昔から「教育上好ましくない」という理由で情報制限をかけるのが当たり前だった。閉架処置のニュースにすごく怒ってる人を見ると、私なんかはむしろ「ガッコに何を期待してるんだ?!」と疑問に思ってしまう。自分が子供だった頃を思い出してみるといい。学校がダメといったものを学校の外で摂取して、それで育ってきたのではないだろうか。むしろそれで、学校がすべてじゃないことを覚え、学校で嫌なことがあっても「学校の外の自分の世界」でバランスを取っていなかっただろうか?
学校がギデオン・フェル博士の密室の定義を教えてくれるわけではない。学校が小学生のうちからスラングが入ったネイティブ発音の外タレロックを聴かせてくれるわけでもない。鉄道写真のカッコイイ撮り方やオンナの集団の中での身の処し方、銀行業界の中での出世の心得を教授してくれるわけでもない。生きてゆく上での支えになるものなんて、学校から得られただろうか? 生徒も先生も保護者も、学校はあくまでも、教科を教えて集団生活+αを体験させる程度のものだと思っといたほうがいいのではないだろうかと私は思っている。
そんな学校で閲覧制限が敷かれるのなんて、特に期待外れでもなんでもない。むしろ、学校の外で「学校では推奨されていないもの」と接する機会があり、学校の迂回路になる大人が存在することのほうがよほど重要じゃないだろうか。
そういう意味で、私は学校での閲覧制限より、上記に引用したような公立図書館での閲覧制限・閉架処置の有無ほうがよほど重要な問題であると考える。なので、学校での閉架処置の始まった今こそ開架に出してきた鳥取私立中央図書館を支持したい。こういう「迂回路」こそが重要なのだ。
「子供でも読みたいのなら司書に申し出ればよい」と考える向きもあるだろうが、子供の頃って、意志的に閉架から出してもらって閲覧するかどうかより、「開架書架や本屋の棚を何となくブラウズしててたまたま出会ってしまったもの」ってのがものすごく重要な意味を持つ。大人を介さない、本との密やかな邂逅というかさ。今考えたら別に「いけない本」でも何でもないものでも、何となく大人に読んでいることを知られたくない本って、ありませんでしたか? しかも、そういう本に限ってのちのち人生に重要な意義を持ってきたり。私も、読書に大人が介入してたらミステリとかSFを読むのって、人生にとってもっとも重要な時期を外してしまってかもしれない。
そういう出会いが学校の中になくても、そんなに問題でもないような気がするのだ。むしろ、子供たちにとって学校が世界の全てになってしまわないよう、「学校の外にも求めるものがある」という習慣を作るため、学校ってこのくらい不自由でもいいんじゃないかと思ったり。しかし、公立の図書館がそうした不自由な学校図書館に倣うのは全く別問題。ただし、しかし、『はだしのゲン』閉架問題について「図書館の自由に関する宣言」を持ち出してあれこれ言っている人の中には、「閉架収蔵=閲覧の自由を冒している」ではないことを理解していない人もいるように見受けられる。図書館ってのはそれなりの規模になってくると、収蔵書籍の内容のいかんに関わらず全部開架にしてたら維持できないんだけど、図書館というもの自体に慣れ親しんでいない人はけっこうそれ分かってないよね。普段書籍や図書館に関心がないのに、我に正義ありとばかりに「自由」とか言われてもなあ。そういう、ただ何かを糾弾していい気分を味わいたい人と、本当に問題を考えたい人とがまるで同じ土俵にいるように見えてしまうところがネットの弱点か。
まあそもそも「図書館の自由に関する宣言」というもの自体、書籍の性善説とでもいうべきものの上にしか成り立たない机上の空論であると考えられるので、私はこれをもとに図書館のあり方を論じるつもりは全くないです。
私は図書館学や教育論の専門家ではないので、図書館や教育の根幹についてまでは論じる気はないけど、この問題について言いたいことはただ一つ、「学校が全てを提供してくれると思うな。学校を世界のすべてにするな。学校の外にも何かを求める習慣を身につけろ」ってことでしょうか。学校で講演する時も平然とコレ言いますよ、私は。そのうち学校からの講演依頼なくなったりして(笑)。
そういや私は中学生の頃に角川文庫の『怪奇と幻想』シリーズを愛読してて、親や教師にものすごく問題視されたけど、まあ、確かに、見ての通りろくな大人に育ちませんでしたねえ(笑)。ちなみにこれは友人のお母さんがやってた私設図書館で借りたもの。21世紀になってから古本者の友人たちの助けを借りて全巻ゲットしました。
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