乱歩賞の現実はもっと散文的
去年も「高野は依頼されて乱歩賞に応募した、もしくは出来レースではないか?」と言い出す人はいた。今年の第五十九回江戸川乱歩賞のファイナリストにプロの高原英理さんが含まれていることによって、またそういう噂が再燃してきてるかも、と、けっこうあっちこっちネットウォッチしている友人から言われた。
ギョーカイからそんなに救世主扱いされてる的幻想を持たれるのは、ぶっちゃけ、気分いいです(笑)。でも残念ながら、現実はもっと味気ないもんですよ……。誰にも知られずに応募して、無名の「誰か」として吟味される、ただそれだけ。応募するプロはこのみじめさというか、誇りを踏みにじられるような辛さに耐えないといけない。そして、落とされた時のリスクを引き受ける覚悟がないといけない。そういう意味では、去年よりやりにくくなった分(誰がやりにくくしたんだw)、高原英理さんや伯方雪日さん等の覚悟は敬意を払われるべきだと私は思う。
何にしても、出来レースにするんだったら、私のように量産もせず映像化しにくい作品ばかり書いている作家に話を持って行ったんじゃ、全然「起死回生の策」にはならないんじゃないかなあ。実際、即映像化ってわけにいかない『カラマーゾフの妹』に対して、出版社とスポンサーであるテレビ局からは表だってマイナスのことは言われていないけど、秘めたるガッカリ感があるのは感じます。
「文壇」という秘密結社か宮廷のようなものが存在していて、特権階級の命令に「ギョーカイ」が従っているかのような幻想を抱いている人は今でもいるけど、そんなロマンチックな夢が見られるなんて、むしろ羨ましい。現実ってのはねえ……もっと散文的なのよ……。いや、だからこそそういう幻想はそのままにしといてあげたほうがいいのか?!
なんかこれ自体が小説のネタになりそうですね。第六十回江戸川乱歩賞にそういうネタで応募する人がいたとしても、私は止めない(笑)。むしろ読みたい(笑)。
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コメント
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具体的な作家名をあげた誹謗中傷のコメントは削除させていただきました。
今でこそすごいと言われるファンタジーノベル大賞最初期の出身者も、20世紀中はけっこうヒドイ言われようでしたよ。池上永一さんや藤田雅矢さんでさえ、2作目まで数年かかっただけで「一発屋」呼ばわりされましたし、北野勇作さんや私は「(中傷する意図で)SF」と言われたし、小野不由美さんや恩田陸さんは「しょせんジュヴナイル」と言われました。乱歩賞でも、かの東野圭吾さんさえ、受賞後注目されるようになるまで10年ほどかかっていますよね。デビューしてほんの4、5年の作家がいかにも目立つベストセラーを書かないからといってまるで才能がないかのように言うのはあきらかに間違いでしょう。そもそも文芸というのは時間のかかる分野です。一瞬の「旬」が命なアイドルじゃないんだからさー。21世紀にデビューした人たちの真価が問われるのは「これから」でしょうに。
乱歩賞に「起死回生の策」とか「テコ入れ」とか、そもそも必要ないでしょ? 前後半年程度のスパンでしかものが考えられない人は、文芸のことなんか考えんでよろしい。
投稿: ふみお | 2013年4月24日 (水) 20時11分
通りすがりの指摘で大変恐縮ですが、
「高原英里」ではなく「高原英理」が正しい表記です。
>乱歩賞に「起死回生の策」とか「テコ入れ」とか、そもそも必要ないでしょ? 前後半年程度のスパン
>でしかものが考えられない人は、文芸のことなんか考えんでよろしい。
というお言葉、私も大いに賛成致します次第。
優れた作品が一つあるならば(作家個人の事情は別として)
「一発屋」で何が悪いのだろう、とすら思います。
投稿: 如月悠帆 | 2013年4月27日 (土) 01時50分
如月悠帆さま
ご指摘ありがとうございます。大変失礼いたしました。本文、直しておきました。いや~、十五冊ほど本を出しておりますが、いまだにゲラがこんなふうでございますorz 編集の方々のご苦労は計り知れず……
>優れた作品が一つあるならば(作家個人の事情は別として)
「一発屋」で何が悪いのだろう、とすら思います。
ここがなかなか難しいところなんですよねえ。私も、質的な意味で「すぐれた作品をただ一つだけ残した作家」は一発屋だとは思わないんですよ。私が一発屋と思うのは、商業的な意味で一発で終わっちゃうタイプですね。一冊二冊、記念受験みたいな感じで売ったらそれで終わりの人。
映画監督で言ったら、ヴィクトル・エリセは「十年に一本しか撮れない」と言われますし、彼の作品の中でも後世に残るのは『ミツバチのささやき』だけかもしれません。でもたとえそうだったとしても、彼を一発屋だと思う人はいないわけで。でも映画祭のコンペティション目当ての作品を撮って、うまいとこ賞取って、ちょっと配給がついて「○○賞受賞の大型新人」とかキャッチコピーつけてもらってスクリーンに登場して、あとはたいした作品撮らないという人は一発屋だと思います。
アレクセイ・ゲルマンも『神様はつらい』を完成させる前に2月に亡くなっちゃったから、完全に完成させた作品は生涯に5作だけだし、商業的にはまったく成功しなかった監督だけど、誰も彼を一発屋や「自称映画監督」だとは思わないでしょう。
私が「一発屋に対してはすごーーーーーーーーく批判的」と自らを称するのは、こういう考えが根底にあってのことです。
80年代くらいまでは、芸術に対する見方はもっと時間的に余裕のあるものでしたよね。現代の我々も見習うべきだと思っております。
投稿: ふみお | 2013年4月27日 (土) 20時22分
はじめまして。高野先生のおっしゃっている「一発屋」は『鉄塔武蔵野線』を念頭においておられるのでしょうか。気になりました。
投稿: かな | 2013年5月 2日 (木) 22時51分
かなさん、いらっしゃいませ~。書き込みありがとうございます。
……そういえば、そんなこともありましたね。すっかり忘れてました。すみません
コメントを編集して付記:検索しました。活動していらっしゃらなかったのですね。不勉強ですみません。当エントリで特定の方を批判する意図はありません。
投稿: ふみお | 2013年5月 2日 (木) 22時57分
はじめまして。名前をあげていただき恐縮です。
僕は正直そのようなたいそうな覚悟はなく、賞出身ではない自分の力がどの程度のものか、腕試ししたくて応募しました。
僕は書店員でもあるので、文芸書の売り上げの落ち込みは肌で感じていますが、乱歩賞を出来レースにして回復できるような安易なものではありませんね。
これからもお互いがんばりましょう!
投稿: 伯方雪日 | 2013年5月 8日 (水) 09時39分
伯方雪日さんいらっしゃいませ。たかが一個人のブログに目を止めていただき、ありがとうございます。
賞の出来レースといえば、さほど遠くない過去に芸能人がらみの、具体的に出版プロデューサーの個人名まで出てきた、どう考えても成功ではない件があったばかりですよね。なのに乱歩賞くらいの権威ある賞でそんなことやったら、バレたら賞自体が即死になりかねませんし、バレなくてもいいこと何もないと思うんですが、世の中、火のないところにフォトショで煙を描きこみたい人がいるんですね。
私は去年、マスコミやプロの文筆家からは一件もそういう疑惑が出なかったこと自体が乱歩賞の誇りだと思っております。どういう結果になってもガチンコ審査と私自身が信じたからこそ応募したというか。そして、ああやっぱり乱歩賞を信じてよかった、と思ったものです。
今年は去年より応募者数増えたそうですし、実はプロの応募がけっこう多かった(別ペンネームなのかとかは根掘り葉掘り聞けませんが)そうなのですが、それはやっぱりみんなが「乱歩賞はガチ勝負だ!」と信じればこそだと思っています。たとえぬるいネタ程度にでも「出来レース」説を口にする人は、応募者全員を侮辱しているということに気づいてほしいものです。
投稿: ふみお | 2013年5月 9日 (木) 16時47分