乱歩賞の現実はもっと散文的
去年も「高野は依頼されて乱歩賞に応募した、もしくは出来レースではないか?」と言い出す人はいた。今年の第五十九回江戸川乱歩賞のファイナリストにプロの高原英理さんが含まれていることによって、またそういう噂が再燃してきてるかも、と、けっこうあっちこっちネットウォッチしている友人から言われた。
ギョーカイからそんなに救世主扱いされてる的幻想を持たれるのは、ぶっちゃけ、気分いいです(笑)。でも残念ながら、現実はもっと味気ないもんですよ……。誰にも知られずに応募して、無名の「誰か」として吟味される、ただそれだけ。応募するプロはこのみじめさというか、誇りを踏みにじられるような辛さに耐えないといけない。そして、落とされた時のリスクを引き受ける覚悟がないといけない。そういう意味では、去年よりやりにくくなった分(誰がやりにくくしたんだw)、高原英理さんや伯方雪日さん等の覚悟は敬意を払われるべきだと私は思う。
何にしても、出来レースにするんだったら、私のように量産もせず映像化しにくい作品ばかり書いている作家に話を持って行ったんじゃ、全然「起死回生の策」にはならないんじゃないかなあ。実際、即映像化ってわけにいかない『カラマーゾフの妹』に対して、出版社とスポンサーであるテレビ局からは表だってマイナスのことは言われていないけど、秘めたるガッカリ感があるのは感じます。
「文壇」という秘密結社か宮廷のようなものが存在していて、特権階級の命令に「ギョーカイ」が従っているかのような幻想を抱いている人は今でもいるけど、そんなロマンチックな夢が見られるなんて、むしろ羨ましい。現実ってのはねえ……もっと散文的なのよ……。いや、だからこそそういう幻想はそのままにしといてあげたほうがいいのか?!
なんかこれ自体が小説のネタになりそうですね。第六十回江戸川乱歩賞にそういうネタで応募する人がいたとしても、私は止めない(笑)。むしろ読みたい(笑)。
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