
これは2001年にロシアに行った時、故レフ・シーロフさんに案内してもらったペレジェルキノの一隅で撮った、アルセニー・タルコフスキーのお墓と、家族が用意したアンドレイ移葬用の予定地。
……と、さも自分で撮ったかのようなことを言ったが、これは夫が撮った写真です。私が撮ったのは生きてるか死んでるかよく分からないハードディスクからサルベージしないと出てきません。もっとも、出てきたところで例によって使い物にならないクソヘタ写真であることは間違いないのですが……
80周年……。タルコフスキーが生きていたら今年で傘寿ってことですか?! なんか想像できない……。タルコフスキーは私が二十歳になって間もなく亡くなってしまったのと、彼の作品が自分の十代の頃の記憶ととても強く結びついてしまっているせいか、どうしても「芸術家としては若くして亡くなった」というイメージと違う姿は受け入れがたい。生きてたら80歳かあ……。もし生きていたら、どんな作品を撮っていただろうか。もっとも、彼の夢に出てきたパステルナークに予言された「七本の映画」は『サクリファイス』の時点で全うしてしまっていたし、やっぱり彼がソ連も存在しないし技術もデジタル化している21世紀に映画を撮っているところは想像できない。信長は天下を取れなかったからこそ信長で、ダイアナ妃はああいう悲劇的な亡くなり方をしたからこそダイアナ妃であるように、やっぱりタルコフスキーは長編七本で早死にしたからこそタルコフスキーなのですね。少なくとも私にとっては。
その七本の長編映画に「ローラーとバイオリン」を足した定番の八本を上映するのが、この「タルコフスキー生誕80周年記念映画祭試写」@ユーロスペース。デジタル・リマスタ版『惑星ソラリス』の試写が急遽行われたので、東映の試写室に行ってきました。いや~、最初、漫然と7階の試写室に行ったらフォーゼの試写やっててあせった(笑)。6階でした。スクリーンじゃなくて液晶テレビでの試写だったので、画像についての感想はあんまり正確じゃないかもと先に言い訳をしておきます。
もう世の中、何でもかんでもデジタルリマスタですが、作品の保存・上映の両立を考えるとこの流れはもう変わらないでしょう。もう「こんなだっけ?!」という鮮明さ、鮮やかさでビックリしましたけど、でも、私自身、長い間見てないし……もしかして、最初からこんなだった? いや、そんなわけないだろう、いやいや、でも、古い映画に心情的に「古色」を期待しているだけかも、いやいやいや、こりゃだいぶ印象が違うだろう……と頭の中がぐるぐるしましたけど、正直、あっという間に慣れました(笑)。慣れたんかい(笑)。映画そのものの印象はむしろ驚くほど変わらないです。少なくともワタシ的にはそうでした。
ソラリスって、見れば見るほど(原作も読めば読むほど)いやな話だなあ……。自分が年を取ってきて「思い出すもの」が蓄積してくると、ますます辛くなってゆく。そういう自分自身にもふりかかってくるものがない分、ソダーバーグ版はむしろ「さわやか」とさえ言えるかもしれない。レムはタルコフスキー版を「恣意的」と受け取ったようで、あまり喜んでいなかったとも聞いているが、実はワタシ的にはタルコフスキーのソラリスが一番好きだったりする。愛とか憎しみとか理解とか、人と人との間にある「関係性」のようでありながら、実は自分が外の「すがたかたち」や「ことば」などを使って自分の中だけに作ってゆくものなのだ。だけど相手にもそれぞれの愛や憎しみや理解があり、もしかしたら形だけを取るように見える「人でないなにものか」の中にも……あったとしても、それは我々には知ることはできないかもしれない。タルコフスキーは70年代以降は「この世界はもしかしたら自分の中にしかないかもしれない」という、禅的なテーマにどんどんはまってゆくように見えるのだが(『サクリファイス』はそこから出る手がかりを見つけたようにも思うけど)、でもそれは「私の中にしかないタルコフスキー」かもしれない。
もう30年も前からハリーのあの髪の結び方をやりたいと思ってるんだけど、どうすればいいんだろう? 一見単に後ろで束ねてるだけのように見えるけど、あのサイドの髪が均一に耳元にかかるのは普通に結んでも再現できないのだ。髪質が違うからムリ? どなたかご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。……あんまり難しくなければ(笑)。
帰りに、 「『惑星ソラリス』理解のために――『ソラリス』はどう伝わったのか」の筆者忍澤勉さんと少しお話しする。ちょっとしか話してないのに断定的に書くのは申し訳ないんだけど、彼の「翻訳を読めば充分」の姿勢にちょっと危機感を感じた。読者として読み、読者として発言するのと、分析者として読み、分析者として発言するのとでは決定的に違う。そこをもっと考えて欲しい。前者の姿勢のまま「○○論」とやってしまうと、もっと踏み込んで研究している文学研究者たちから「SF論って幼稚だなあ」と思われかねないのが怖い。翻訳だけ読んで疑問を感じないのと、読者と分析者の違いに気づいていて原典の読めなさに苦悩した上で発言するのとでは、行先は決定的に違ってしまう。他人の演奏を聴いて感想を述べるのと、楽典理論を身につけた上で作曲家の直筆譜面を分析するのとの違いのようなものではなかと思う。もちろんブログにCD評やコンサートの感想を書くのは前者で充分で、私の上記の感想はこちらに該当する。でもうちのセンセイがロシア映画やその原作について論じるのは後者に該当。当然、最低限原典が読めるのがスジだ。「論」と標榜し他人様に文章を読ませる以上、少なくとも、違いの自覚がなくては読者に責任が果たせない。読者と分析者の違いの自覚がないままあれこれ手を出して自滅しちゃった人を何人も見てきているので(誰が妨害しなくても、誰がつぶそうとしなくても、自滅、つまり自ら破滅しちゃうのである)、彼のような妙に若々しい楽観性には危機感を感じる。もっと悲観的なくらいのほうが、最終的には遠くまで行けると思うのですね。
タルコフスキー生誕80周年記念映画祭は8月4日から17日まで、渋谷のユーロスペースで開催。傘寿……やっぱり違和感あるなあ。タルコフスキーは私にとっては非情に特別な存在なので、可能な限り見に行くつもりです。でも暑いのよね……
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