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2012年7月26日 (木)

タルコフスキー生誕80周年記念映画祭試写

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これは2001年にロシアに行った時、故レフ・シーロフさんに案内してもらったペレジェルキノの一隅で撮った、アルセニー・タルコフスキーのお墓と、家族が用意したアンドレイ移葬用の予定地。

……と、さも自分で撮ったかのようなことを言ったが、これは夫が撮った写真です。私が撮ったのは生きてるか死んでるかよく分からないハードディスクからサルベージしないと出てきません。もっとも、出てきたところで例によって使い物にならないクソヘタ写真であることは間違いないのですが……

80周年……。タルコフスキーが生きていたら今年で傘寿ってことですか?! なんか想像できない……。タルコフスキーは私が二十歳になって間もなく亡くなってしまったのと、彼の作品が自分の十代の頃の記憶ととても強く結びついてしまっているせいか、どうしても「芸術家としては若くして亡くなった」というイメージと違う姿は受け入れがたい。生きてたら80歳かあ……。もし生きていたら、どんな作品を撮っていただろうか。もっとも、彼の夢に出てきたパステルナークに予言された「七本の映画」は『サクリファイス』の時点で全うしてしまっていたし、やっぱり彼がソ連も存在しないし技術もデジタル化している21世紀に映画を撮っているところは想像できない。信長は天下を取れなかったからこそ信長で、ダイアナ妃はああいう悲劇的な亡くなり方をしたからこそダイアナ妃であるように、やっぱりタルコフスキーは長編七本で早死にしたからこそタルコフスキーなのですね。少なくとも私にとっては。

その七本の長編映画に「ローラーとバイオリン」を足した定番の八本を上映するのが、この「タルコフスキー生誕80周年記念映画祭試写」@ユーロスペース。デジタル・リマスタ版『惑星ソラリス』の試写が急遽行われたので、東映の試写室に行ってきました。いや~、最初、漫然と7階の試写室に行ったらフォーゼの試写やっててあせった(笑)。6階でした。スクリーンじゃなくて液晶テレビでの試写だったので、画像についての感想はあんまり正確じゃないかもと先に言い訳をしておきます。

もう世の中、何でもかんでもデジタルリマスタですが、作品の保存・上映の両立を考えるとこの流れはもう変わらないでしょう。もう「こんなだっけ?!」という鮮明さ、鮮やかさでビックリしましたけど、でも、私自身、長い間見てないし……もしかして、最初からこんなだった? いや、そんなわけないだろう、いやいや、でも、古い映画に心情的に「古色」を期待しているだけかも、いやいやいや、こりゃだいぶ印象が違うだろう……と頭の中がぐるぐるしましたけど、正直、あっという間に慣れました(笑)。慣れたんかい(笑)。映画そのものの印象はむしろ驚くほど変わらないです。少なくともワタシ的にはそうでした。

ソラリスって、見れば見るほど(原作も読めば読むほど)いやな話だなあ……。自分が年を取ってきて「思い出すもの」が蓄積してくると、ますます辛くなってゆく。そういう自分自身にもふりかかってくるものがない分、ソダーバーグ版はむしろ「さわやか」とさえ言えるかもしれない。レムはタルコフスキー版を「恣意的」と受け取ったようで、あまり喜んでいなかったとも聞いているが、実はワタシ的にはタルコフスキーのソラリスが一番好きだったりする。愛とか憎しみとか理解とか、人と人との間にある「関係性」のようでありながら、実は自分が外の「すがたかたち」や「ことば」などを使って自分の中だけに作ってゆくものなのだ。だけど相手にもそれぞれの愛や憎しみや理解があり、もしかしたら形だけを取るように見える「人でないなにものか」の中にも……あったとしても、それは我々には知ることはできないかもしれない。タルコフスキーは70年代以降は「この世界はもしかしたら自分の中にしかないかもしれない」という、禅的なテーマにどんどんはまってゆくように見えるのだが(『サクリファイス』はそこから出る手がかりを見つけたようにも思うけど)、でもそれは「私の中にしかないタルコフスキー」かもしれない。

もう30年も前からハリーのあの髪の結び方をやりたいと思ってるんだけど、どうすればいいんだろう? 一見単に後ろで束ねてるだけのように見えるけど、あのサイドの髪が均一に耳元にかかるのは普通に結んでも再現できないのだ。髪質が違うからムリ? どなたかご存知の方がいらっしゃったらご教示ください。……あんまり難しくなければ(笑)。

帰りに、 「『惑星ソラリス』理解のために――『ソラリス』はどう伝わったのか」の筆者忍澤勉さんと少しお話しする。ちょっとしか話してないのに断定的に書くのは申し訳ないんだけど、彼の「翻訳を読めば充分」の姿勢にちょっと危機感を感じた。読者として読み、読者として発言するのと、分析者として読み、分析者として発言するのとでは決定的に違う。そこをもっと考えて欲しい。前者の姿勢のまま「○○論」とやってしまうと、もっと踏み込んで研究している文学研究者たちから「SF論って幼稚だなあ」と思われかねないのが怖い。翻訳だけ読んで疑問を感じないのと、読者と分析者の違いに気づいていて原典の読めなさに苦悩した上で発言するのとでは、行先は決定的に違ってしまう。他人の演奏を聴いて感想を述べるのと、楽典理論を身につけた上で作曲家の直筆譜面を分析するのとの違いのようなものではなかと思う。もちろんブログにCD評やコンサートの感想を書くのは前者で充分で、私の上記の感想はこちらに該当する。でもうちのセンセイがロシア映画やその原作について論じるのは後者に該当。当然、最低限原典が読めるのがスジだ。「論」と標榜し他人様に文章を読ませる以上、少なくとも、違いの自覚がなくては読者に責任が果たせない。読者と分析者の違いの自覚がないままあれこれ手を出して自滅しちゃった人を何人も見てきているので(誰が妨害しなくても、誰がつぶそうとしなくても、自滅、つまり自ら破滅しちゃうのである)、彼のような妙に若々しい楽観性には危機感を感じる。もっと悲観的なくらいのほうが、最終的には遠くまで行けると思うのですね。

タルコフスキー生誕80周年記念映画祭は8月4日から17日まで、渋谷のユーロスペースで開催。傘寿……やっぱり違和感あるなあ。タルコフスキーは私にとっては非情に特別な存在なので、可能な限り見に行くつもりです。でも暑いのよね……

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コメント

ご訪問ありがとうございました。拙文、読み返したうえで、お説のご指摘の点を汲んで、引用削除させて頂きました。いつも男らしい明快な論旨堪能させて頂いております。また、最後の文章は、あくまでもこの数ヶ月の自分の作業状態を見据えてのことで、お説による心情の変化などでは決してありません。もしやと思って、こちらでもコメントさせて頂きました。

「ただのダダ漏れブログ」に目をとめて下さってありがとうございます。も~ほんとにただのダダ漏れ以外の何物でもありませんので、適当に「あ~はいはい」という感じで読み流してくださいませ。

人間誰しも「オレこれでいいんだろうか、そんなレベルじゃないんじゃないか」と内省しつつ、フィードバックしつつ考えることこそが大事なのだと私は思っています。なので、自分の文章や持論に対して厳しくなった今こそまさに、素天堂の活動のし時なのではないでしょうか。だからこそ、こういう時にこそ、悩んでるからこそ、書くべきなのでは。私が何だかんだ言ってコンスタントに執筆してるのは、「本当はダメなんじゃなかろうか自分」と常に思ってるからかもしれません。

自分の在り様に悩んでる時こそタルコフスキーですよ旦那www タルコフスキー観に行ってくださいw 癒されまっせ。そして多分、何かしら得られるんじゃないかと思います。

うちの忍澤をご心配くださいましてありがとうございます。
彼とは近々食事をする予定になっておりますので、今後の活動の方向性についてさりげなくたずねてみようと思います。
ただ、これはあくまでも主観的な感触にすぎませんが、彼は今回の評論で評論活動にはひとくぎりつけて、創作に軸足を移そうとしているのかもしれません。
しかし、おっしゃるとおり、海外の作家や作品について論じるときに、原文が読めないというのは致命的だと思いますので、評論賞チームにはその姿勢を伝えていきたいと思います。
ちなみに、第一回評論賞を受賞した横道くんは、英語、ドイツ語、ラテン語に堪能で、ギリシア語もかなりいけます。

>ちなみに、第一回評論賞を受賞した横道くんは、英語、ドイツ語、ラテン語に堪能で、ギリシア語もかなりいけます。

うらやましい……

ゴガクダメ系の人間には想像を絶する世界です。語学と数学って、もちろん努力は必要でしょうけど、才能の部分でかなり差がつきますよね。

誤解を恐れる小心者として念を押しますが、「原典が読めない人間は外国語の作品を論じてはいけない」とは考えていません。でも、「本当は翻訳しか読めないのは充分ではない」という自覚が常にないと、自信満々でへんな方向に飛んでっちゃうかもしれないので、原典が読める人の言説を見聞(検分)したりしてフィードバックしてゆく「姿勢制御」のココロがないとまずいのでは、ということです。

私がSF評論賞と距離を置いているのは、ファン論として立派な人をほめたたえ、SF論全体を雰囲気的に盛り立てることを目標としているのか、アカデミアンにも一目置かせる研究家を世に出すため、そしてそれによってSF論をサブカルチャーで終わらせないためにやっているのか、よく分からないからです。出身者に「今流行りの、今注目されてる、今まさに旬の作品」について語りたがる傾向を感じるのも不安です。以前、別な出身者の方にもお話ししたのですが、そういう評論をやってると、評論というもの自体が流行に左右された「時節の花」になってしまうのではないか、と危惧します。

そして、翻訳もの云々の問題。英語のようなメジャー言語の翻訳ものを扱うなら、疑問点があれば多くの人がチェックしてくれますから、ヘンな言説がまかり通ることは少ないと思います。しかしポーランド語やロシア語の作品を扱うとなると、そういうチェック機能自体がなかなか働かないですよね。長期的なことを考えると、何もかも沼野さんチェック頼みにしちゃうのはまずいですし。それに、もし元の作品がベトナム語だったら? エストニア語だったら? アイスランド語だったら? チェック機能はどう働くのでしょう?

マイナー言語翻訳作品の場合、翻訳のちょっとだけ恣意的なところを重要視した解釈なんかが(論者本人も意識せずに)紛れ込み、誰も気づかない、ということが起こりかねないところが怖いんです。「読者に対して責任が果たせない」というのは、こういうことです。私もロシア語の映画の感想をここに書く時、井上に、「翻訳上どうしてもマズイところ」の話を聞いてから書いてます(とはいえ、しょせんただのダダ漏れブログなんですけどw)。論者自身がそういう危険性を意識しているのか、無防備なのか、それだけでも違いは生じてくるものだと思っています。

書評や感想と評論は別な役割を持っていると思います。絶対的な境界線はないと思いますが(定義論は往々にして「勝つための議論」になりかねないので参入しませんけど)。SF評論賞が何をやろうとしているのか……まだ私には把握できてないんですが、始まったばかりの賞には苦労と試行錯誤がつきものです。私もいつかその方向性を理解したいと思っています。

私と高野様との会話はどのくらいの長さだったでしょうか。
試写室からエレベーターまで、そして地上に降りて、横断歩道の前でお別れするまでの、ほんとうに短い時間だったかと思います。
その間に私がお話させていただいたことで、「翻訳を読めば充分」という姿勢をお感じになられたのですね。誠にもうしわけなく思います。
会話の才もないようで、そのように判断されてもしかたのないことなのかもしれません。
しかし、私は「翻訳を読めば充分」だとは考えておりません。そのことをぜひご理解いただきたいのです。

ちなみにSFマガジンに掲載させていただいた拙文は、「『惑星ソラリス』理解のために[一]――レムの失われた神学」と「『惑星ソラリス』理解のために[二]――タルコフスキーの聖家族」というタイトルになりました。

原典を読んでいないことに難色を示した私に、忍澤んが「え、それじゃ翻訳を読む意味なんかなくなっちゃいますよね(笑)」と、ちょっと嘲笑的な反応を示されたことは忘れがたいです。私はそれに対し「読者として読むのと分析者として読むのとでは違うはず」と申し上げました。忍澤さんはそれに対し、「まあねえ……」という感じで話をはぐらかされました。

会話術を言い訳にするのはいかがなものかと思います。私もあの時、会話術という点では、「めんどくせーおばはんにつかまっちまったなあ」と思われだろうなあと恥ずかしい思いをし、反省もしましたが、発言の内容自体は後悔しておりません。

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