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2012年2月25日 (土)

アメリカの震災チャリティ・アンソロジーTomo発売へ

41tne3uc09l__ss500__3 いよいよ、Tomo: Friendship Through Fiction—An Anthology of Japan Teen Storiesが発売になります。

これは日本在住の作家ホリー・トンプソンさんが編者となって、Stone Bridge Pressから発売される本で、日米両国とカナダ、オーストラリア等の英語圏の作家たちによる、日本をテーマとした作品を集めたヤングアダルト向けのアンソロジーです。小説、詩、イラスト・ストーリー形式の36作品を収録。うち10作品が日本語から英語への翻訳作品となります。東日本大震災の一周年に合わせて発売され、収益は東北の子供たちの支援のために使われます。

詳しい内容及び著者・翻訳者インタビュー、寄付先等の情報は公式サイトにあります。

Tomo公式サイト  Tomo公式サイト日本語ページ

ただ今、プロの翻訳者たちによる著者インタビューの日本語翻訳作業中。

Amazon.jp(日本)のページ  Amazon.com(アメリカ)のページ

その他、カナダ、イギリス、フランスのアマゾンでも買えます。ううむ。さすがだ……。英語の威力恐るべし。

公式には3月10日(日本時間で3月11日)発売ということになっていますが、アメリカのアマゾンではもう買えますね。プレスリリースを必要とされる日本のメディアの方は、どうやらアメリカ側に何もかも対処してもらうのは大変なようなので、まず私にメールを下さい(takanositemail@mbr.nifty.com)。日本語版を作りたいという出版社歓迎。

友情を旨とするティーンエイジャー向け企画でありながら、よほどのエリート教育を受けた語学が得意な子でもない限り日本の一般の中高生には読めないわけで、日本のティーンエイジャーに疎外感を感じさせるようなことになってはいけないと考えています。現在アメリカ側に日本語版の企画を任せてもらえないかと提案中です。あの東欧アンソロジーに比べたらラクな仕事ですしね

日本をテーマとした日米合同のアンソロジー企画というのは、どうやら今まで存在しなかったようです(調査不足の可能性もあるので、ご指摘があればお願いします)。すでに英語版を読んだ人の感想では、チャリティ企画としてだけではなく、純粋にティーン向けの書籍として大変面白く、価値のあるものだそうです。ならば何としてでも日本語版を作って、日本の若き読者たちに届けたいです。

私のインタビューはこちら。フォトショを使わない人なので(「使えない」とは言いたくないw)、なんともリアリズムなお写真 着付けに気を取られ過ぎてて机の上を片付けないまま撮ってるし……。万年筆は日常使い用のスーベレーンM400ホワイトトートイスとタルガ・ブレステージですね。えらいリアリズムだ 「鐘の皇帝」は2001年に撮影したもの。私が小さい人なので、鐘がよけい大きく見えますねw これ本気で鳴らすつもりで作ってたロシアの人たちって、何考えてたんだろう……

山崎バニラの活弁大絵巻 ~ニセモノvsホンモノ~

24日、井上にくっついて「山崎バニラの活弁大絵巻 ~ニセモノvsホンモノ~交感ひろばPart4」に行ってきました。ちょっと前にボリス・バルネットの活弁つき映画の件で山崎さんが井上と一緒に仕事をした関係でお招きいただいたのでした。

当日の演目は山崎バニラ『白石よござりす』、伊丹万作『国士無双』(大正琴弾き語り)、山崎バニラ『活動写真いまむかし』、フリッツ・ラング『メトロポリス』(ピアノ弾き語り)。「マルチタレント」と紹介されることも多く、テレビでの露出も増えている山崎バニラの、活動写真弁士としてのステージ。大正琴やピアノの弾き語りでの活弁のみならず、活動弁士の歴史や自分が活弁士になった経緯をまとめた短編映画を作ったり等、聞きしに勝るマルチっちぷり。あの「ヘリウムボイス」も長時間聞いたら辛いんじゃないかとちょっと思っていたのだが、実際に聞いてみるとそんなことはなく、むしろ普通の女子アナ的「かわいい声」などよりはるかに心地よく聴けてしまったから不思議。

澤登翠(さわと みどり)などは師匠から受け継いだスタイルを守ってゆくタイプだが、山崎バニラはところどころにイマドキ風の言葉遣いやイマドキっぽいくすぐりも入れるタイプ。前者が能や狂言の方向性だとすれば、後者は歌舞伎の方向性という感じだろうか。そもそも落語や講談、歌舞伎はその時その時のネタをちょっと仕込むのが当たり前のもので、サイレント映画に弁士がつけていたセリフだってそうであったはず。おそらく、山崎バニラみたいな「古典映画に今風の色を付ける」ことに対しては、またウルサく言う自称映画研究家みたいな人はたくさんいるんだろうなあと思うけど、そういう方々には是非、去年新橋演舞場の花道に登場した「戦場カメラマン」にもたっぷりと文句をつけていただきたいもんです。

驚くシーンにイマドキっぽい言い回しを使ったり、現代人から見ると奇妙に見えるシーンに、皆が心の中で思っているはずのツッコミをちょっと入れたりするだけで、サイレント映画は驚くほど生命が宿る。古い映画は「現代ものとは違うから違和感があって当たり前。そこは承知の上で理論的に理解すべし」という考え方も、まあ、あるっちゃあるだろうが、あの時代の映画はそもそも大衆的娯楽として撮られていたものだ。エイゼンシュテインやバルネットも含めて、誰も、少数の優れた鑑賞者をうならせるためのおゲイジュツ映画なんか作ってない。もちろん表現者としては、エンターテイメントでありながらも一過性のエンターテイメントで終わらないものを追求する矜持があっただろう。でも芸術映画のための芸術映画ではないのだ。大勢の観客が「おもしろい!」と思う瞬間の生命力はその瞬間ごとに現れては消えてゆくもので、映像さえ残っていればその生命力は取っておけるものではない。現代の人間がそういう「瞬間の生命力」を味わうための方策は、いろいろあっていいと思う。

山崎バニラの今時テイストやツッコミの挿入はそう頻繁ではなく、バランスとしてはとても歌舞伎的。人気が出てくると調子に乗ってやり過ぎになるタレントは多いかもしれないが、そういうことにだけはならないでほしいと願うことです。

ただ、どうしても気になるのが、才能がマルチであり過ぎること。年をとっても「マルチタレント」として成功している人がいるだろうか、と考えると……。声優もやるし歌も歌うという人はいるし、歌手だけど絵の個展もやるという人、作家でバンドもやってる人等々はいる。だけど、中高年になっても才能がマルチであること自体を「売り」にし続けられる人って、果たしているだろうか。私は「小説だけで食べていけるのがプロ作家」とか、「占いだけで食べていけない占い師はダメ」みたいな考え方にはまったく賛同しない。山崎バニラにも、「澤登翠みたいに活弁だけで食べていけるようになるべき」などとは全く思っていない。しかし、才能がマルチであること自体を売りにして果たして中年以降にもやっていけるのか、ということはもうそろそろ考えたほうがいいのではないかと思っている。今回の公演でも、あまりにもバニラさん尽くし過ぎたので、おなかがいっぱいになるのがとても早かった。そして、『国士無双』や『メトロポリス』よりも山崎バニラの印象のほうが強く残ってしまった。まだ若くて目新しい、人気上昇中のマルチタレントでいられるうちはチヤホヤしてくれる人がたくさんついてくるだろう。でもそういう人たちは往々にして移り気なもので、「マルチタレントである山崎バニラ」という存在に飽きた時、彼らはどうするかと考えると、不安になるわけです。活弁士としての活動を核にするつもりなら、もっと「マルチタレント山崎バニラ」より、上映されている映画そのものに脚光が当たるようにしてゆかないと、数年後にはチヤホヤ組に飽きられ、映画ファンにはそっぽを向かれ、なんていうことになってしまわないかと思うわけです。

栗本薫というマルチな才能を持った人が、そのマルチさに溺れずにどう自分の才能を使ってきたのか、彼女にとっては参考になることが多いんじゃなかろうかという気はします。

2012年2月17日 (金)

『SFが読みたい! 2012年版』と「突破口」賞受賞

『SFが読みたい! 2012年版』が出ていることにやっと気がついて購入。『時間はだれも待ってくれない』は海外篇の8位にランクいたしました。ご投票くださった皆様ありかとうございます。まあ何しろ11月末くらいに集計してしまうものなのに、こちとら店頭に並んだのも献本も実質10月ですしね(言い訳)。7位とは3点差、6位とは4点差ですし(手前味噌)w。

私はランキングってするのもされるのも非常に苦手で、もうこちらの投票からはとうの昔に退却しちゃったんですが、投票された方々のご苦労に頭が下がります。やっぱり選ぶのって大変そうですよね……。自分のブログでCDの自分的勝手な年間ベストをやったりやらなかったり、Xファイルの自分的ベストを勝手に決めたりとかのランキングと違って、その投票の微妙な点差が結果としていつまでも残っちゃうわけですから。個人的には敵といっていいような関係でも、ちゃんと書籍に対する評価については公正に投票してくれ人もいてありがたい限りです。やっぱり、見る目がある人は態度も公正だと思うことは多いですね。もっとお互い仕事上で積極的に協力し合えればとも思いますが……まあ、文筆の仕事てえのは、言ってみれば人間の「変なところ、ダメなところ、黒いところ」に自ら首を突っ込んでゆくような仕事ですんで、お互いあくの強さが相容れないってのはよくあることですから、しょうがないかなあ……

SFじゃない人たちにとっても、芥川賞に便乗していない円城塔インタビューは興味のあるところなのではないかと思います。何しろインタビューしたのが芥川賞の発表の前日ですから。これ読んでても思うのは、やっぱり世間の「SFに対する目」ってキビシいなあ、ということでしょうか。なんでそんなに特殊扱いされるんだろう。私も東欧アンソロジーを出した後、SFの中のみならず外からも「文学としてはレベル高いけど、SFとしてはイマイチだよね」「SFとしてはレトロだよね」「SFとしては評価されてないでしょう?」とさんざん言われた。この「SFとして」って何なんだろう? そもそも日本のSFの定義って、かなり広義で柔軟なものだと思ってたけど、なんか普段はSFの定義なんて考えもしないような人からもこんなこと言われて、どんどん「SFの範囲」を場当たり的に狭められている(「SFの中の人」は自ら狭めている)ような気がしたのですが……。「SF」が芥川賞を受賞したことで、こういうゲットー化が少しでも解消する方向に向かってくれれば、と思うことです。

もう一ついいニュース。『時間はだれも待ってくれない』収録の、アンドレイ・フェダレンカ「ブリャハ」が、ベラルーシで「突破口」賞を受賞しました(リンクの下から二番目の記事。当アンソロジーへの言及あり)。これは外国語に翻訳されたベラルーシ文学の中でもっともすぐれた業績をあげた作品に授与されるものだそうです。またフェダレンカさんは『境界』という小説で2011年度散文部門の最優秀賞を受賞したそうです(上記リンクの一番上の記事)。

ロシア編、いろんな意味で気が重いですが(一番気が重いのはロシアが相手だということか(笑))、「SFとして人気を得よう」みたいなつもりじゃない路線は変わらないので、そのようなものとして受け取っていただければ幸いです。

2012年2月13日 (月)

仲宿 カユテンパット続報

前エントリの仲宿商店街ネタの続きですが……

今日も、久しぶりに仲宿商店街に行って、カユテンパットのある道も通ってみました。

そしたら……

こっ……こんな看板が

20120213

え、ええと……

しかも、今さら気づいたんですけど、この横ちょに「Kayu・Tempat」と書かれた看板が。

一番大きい看板に「カユテン(食堂)パット」って大書してあるので、今までずーーーーーーーーーーーーーっと「カユテン・パット」だと思ってたんですが……もしかして……「カユ・テンパット」? なら大きい看板にも「カユ(食堂)テンパット」ってと書いとけ!

応援するキモチはあるが……すまん、まだ入店する勇気は無い。勇者は仲宿商店街(からちょっとはずれたところ)に来たれ! そして私にレポートしてください(笑)。

2012年2月12日 (日)

「出没! アド街ック天国」仲宿編補足説明

この間、JR板橋駅前のパン屋さんの張り紙で知った仲宿編。さっそく、夫とテレビの前で正座して拝見いたしました(嘘)。

近所の友達と情報交換すると、「仲宿」と言いつつ、けっこう広い範囲で取材していた様子だった。私は「おばちゃんたちのお惣菜屋さんあれこれ」が一位、三位以内に「鳥新」が入ってるだろうなあと予想していたけど、予想以上に取材範囲が広く、ランキングの結果はこういうことに。

「出没! アド街ック天国」板橋仲宿編

そうか……そうだよね。一位、二位は文化財系か。近藤勇のお墓は第十二位の「歴史散策」でちらっと紹介されたものの、単独ではランクインせず。って、実はあれは北区のものなのだ。無念!

近藤勇関係の話としては、本当かどうか知らないけど、こんな話が。仲宿商店街で一番大きなスーパー「ライフ」のところに脇本陣跡の石碑があるんだけど、近所のおばあちゃんの話だと、本当は脇本陣はもうちょっと板橋寄りのひっこんだところにあったのだが、地権者の陰謀でああいう目立つところに石碑を建てちゃったんだとか。いや、どこまで本当の話か分かんないけど。

第二十位の「宿場の名残」で紹介された遍照寺は、実は今、住職がいない。去年の夏に商店街のおばちゃんに聞いた話なのだが、何年か前に前の住職が亡くなってから、どうも人が居つかないらしい。本山から次の住職が派遣されてきたことはあったが、なんかいつの間にか帰っちゃって、それ以来無人なのだそうだ。そういや以前は石碑のあたりは草取りがされてたけど、最近荒れ果ててるし、猫も触らせてくれなくて、なんか雰囲気変わったなあと思ってたら、そういうことだったのか。馬頭観音やその他の石碑、猫は、近所の人たちが世話をしているのだという。このお寺、普通の民家のような建物に本堂があるだけのお寺なのだが、ちょっと独特な雰囲気を漂わせていて、なかなか近寄りがたいのである。あからさまにホラーな感じではないんたけど、何かこう、二度くらい温度が低い感じというか。派遣されてきた住職、やっぱり居づらかったのかなあ。馬も女郎も一緒くたに供養してある、古い宿場街ならではの哀しさもあり、まあ何とも言えず独特です。先月、何だか急に草刈りとかしてあって片付いた感じになったな、新しい住職でも来たのだろうかと思ってたけど、そうじゃなくてアド街が来たのね。そうかそうだったのか。

十八位のボンベイ・パレスはマジで美味しいです。行けば必ず美味しいのが分かっているので、うちではわりと行きがち。開店した当初は、美味しいのにサービスがインド速度だったので、長くはもたないだろうなあと思っていたのだが、すごいことに、あっという間にサービスが日本で通用する速度になったのだ。当然、繁盛してます。実は今日のアド街で取材した範囲はひそかにカレー激戦区で、本場インドやバングラデシュの人たちがやっているお店が他にもいつくかあるのだが、取材されていたのはボンベイ・パレスだけだった。でも、確かにボンベイ・パレスは美味しいです。インドビールも飲めるし、カレーの辛さも調節してくれる。東欧アンソロジーも増刷したことだし、ちょっとお祝いということで夫にここに連れて行ってもらうことになっているのだが、まだ風邪の三巡目が治ってなくて行っていないのだったorz 

しかし今日の放送で、うちで一番ウケたのは「薬丸印の新名物」でカユテン・パットが紹介されていたことw 近所の人の話では、若いお兄ちゃんが一人で頑張って店らしい。何だよ「ラー油天つゆかけハンバーグの天ぷら ガリ添え」ってwww この店、店名から想像できる通り、本来はエスニック料理屋であった。何ていうか、頑張りすぎない感じのタイ料理屋というか。それがいつの間にか「うどん始めました」とかいう紙を貼りはじめ、最近通りがかると「俺の饂飩」とか大書してあって、すっかりうどん屋になっていた。と思ったのだが、いつの間にかハンバーグの天ぷらか……。迷走するカユテン・パット。大丈夫か?! 応援したい気持ちはあるのだが、いったいどう応援すればいいのか……ええと……と、とりあえずがんばれ、カユテン・パット。正直、まだ入店する勇気はない。ゴメン。

ついでの話だが、上記の展開通り、私はわりと道を聞かれたり道端で知らない人に話しかけられたり、聞いてもいないことを説明されたりしやすい。上記の「聞いた話」ていうのも、どれも、いつの間にか人が寄ってきて勝手に説明されちゃったことなのだった。上野公園で聞いてもいないのに彰義隊の史跡の説明を延々とされこともあるし、地元じゃなくても道を聞かれる。でもモスクワでロシア語で私に道聞くのはやめてくださいw 大阪の電気屋も分かりませんからw!

2012年2月 5日 (日)

ものすごく出遅れたけど田中慎弥さん@芥川賞で思ったこと

すんません。入院してたとかじゃないですが、「それと何が違うんだ?」的状況でした。講義→風邪→締め切りが超厳しい原稿→風邪(一進一退現在進行中)。慶応大学文学部の皆様お世話になりました、ありがとうございます。慣れない講義ですいません書類もまだ送ってませんすいませんすいません明日郵送します。締め切りが厳しかった原稿は……ちょっとバクチに出ました。どういう形で世に出るか……もうちょっと時間がかかります。結局ロシアネタ。こんなんでもマイコプラズマにもインフルエンザにもならないんだから、病人と言いつつ実はあんがい丈夫だったりして(笑)。

で、表題の件ですが。

もう一か月も経っちゃって、意見と言う意見は出尽くして、今さら私が何か言う意味なんかまったくないかとは思いますが。まあ当のやり取り自体は、そもそも文学なんてこういうことの連続なんだし、そんなのも含めてこその芸術なんだから、どんどん言ったらいいと思ってます。田中さんってきっと、面と向かって誉められるのがニガテなんだろうなあと思うことです。作品が評価されるのはいいけど、直接面と向かってチヤホヤされるのって……やだよね。それに耐えつつ、「やめましょうよ」と言いながらも八分も記者会見したり、帰りに短いながらも深々と頭を下げたりというあたりに、人格の根本的なところに大きな誠意があることを感じます。イシハラは……まあ、いいです(笑)。でも、誉めるばかりが次の世代を育てる糧となるわけじゃないんで、ヒール役は必要かと。

ただ私がやだなあと思ったのは、世の中の反応。まあ面白がるくらいだったらいいけど(良くないか)、田中さんに批判的な人がけっこういるのに驚いた。私の身内(念のために言っときますが、夫じゃないです)にも「どっちもコミュニケーション障害だ」というようなことを言ってる者がいて、なんかモヤモヤした。みんな、作家に何を期待してるんだろう……

SF大会やネットでも疑問に思うけど、作家や評論家の人気とか評価って、作品よりも「客あしらいのうまさ」のほうが影響力が大きくなりすぎてないだろうか。作家本人は引っ込み思案なことは往々にしてあるけど、「客あしらい」が上手くないとあとでいろいろ悪口を言われて人気に影響が出て辛い思いをしている仲間がけっこういる。私も思わぬ状況でサインを求められてもスマートな対応はできなくてあたふたするんだけど……それって普通じゃないだろうか。なんでいつでもどこでもいい人キャラ芸能人みたいな「客あしらい」ができないと非難されるんだろう。イベントやネットで上手く立ち回らないと「いけない」プレッシャーってどんどん高まっている気がする。

そもそも文学って、ヘドロにもぐって真珠を拾うようなものだからこそ意味があるのであって、頭からヘドロに突っ込んでゆくような変人が誰から見てもステキないい人なわけがない。一方でヘドロにもぐれ、もう一方で「でも臭くない手で真珠を差し出してね」って要求されてもムリです。

ニュースサイトの記事だとしばらく経つと流れちゃうので全文コピペ。

芥川賞に選ばれて:言いたいこと、あの夜と今=田中慎弥

 すでに各メディアで流されたから御存知の方も多いだろうが、一月十七日、私の小説が芥川賞に決まった日の夜、東京でバカな記者会見をした。女優の言葉を引用し、自分がもらって当然と言い、さらに石原慎太郎都知事に言及した。その後のさまざまな報道のされ方の中には、事実と違う部分がかなりある。終わったこととはいうものの、私の知っている範囲の事情を、どうしても書いておきたい。

 まず、十七日の会見の段階で私は、石原氏が六日に行った、今度の芥川賞候補作はバカみたい、という発言を全く知らなかった。正確な内容を知ったのは十八日になってからだ。次に、会見内での、もらって当然、都知事と都民のためにもらっといてやる、という言い方は、はっきり言うと最終候補になるずっと前から、もしその時が来たら言ってやろうと準備していたものだった。だから、六日の都知事の発言に田中がかみついた、というのはメディアが勝手に作った図式だ。

 もう一つ、その後の石原氏の選考委員退任について。これを知ったのもやはり受賞決定の翌日のこと、編集者から知らされる、という形だった。選考会が開かれる前は勿論(もちろん)、会見場に到着して関係者と顔を合わせた時にも、誰からもそんな話は出なかった。石原氏の真意や、いつ退任を決意し、表明したのかについては諸説出ているようだが、私が賞をもらうのが原因とは思えない。実際その後の会見で石原氏は、私の作品を推したと語っている。少なくとも、引導を渡すだの寝首を掻(か)くだのといった種類の話ではない。私が知っていることはだいたいこのようなものだ。それ以外のことは分からない。

 それにしても、あんな騒ぎになるとは思いもしなかった。会見で石原氏のことを言えばその場が一気に盛り上がり、和むだろうと考えていただけだ。会見を御覧になった方はお分かりだろうが、私はテレビ映えしない。だから言葉の上で何か面白いことを言って切り抜けないことにはどうしようもない。だからああいうことを言っただけ。それがメディアの作ったストーリーによって思わぬ大きさに膨らんでしまった。

 だがそもそもは、作家が言いたいことを言い合った、ただそれだけだ。作家というものは昔からさまざまな形でぶつかったり、反目したりしてきた。文学上の論争のこともあったし、私怨(しえん)に近いこともあった。まっとうな作品批判から相手の生活や容姿を嘲(あざけ)るようなものまで、熱心に、幅広く行われてきた。時には言葉だけでなく肉体的な暴力に発展する場合まであったのだ。

 今回は言葉の上のこと。なのにそこへメディアが集まった。まるで事件現場に群がるように。つまりいまの日本というのは、作家の言い合いに過剰に反応するほどにまで、ものが言いづらい世の中なのではなかろうか。だから好きなことを言う人間を珍しがっているのではないのか。そのあたりを、人の言い合いを流すだけのメディアは、いったいどう考えるのか。私はネットをほとんど知らないが、ブログやツイッターで言いたいことを言っているように見える日本人は、実は言いたいことを出し切れていないのかもしれない。この点を分析する能力は自分にはない。ひょっとすると、言いたいことを自由に言っている石原氏や私は、古いタイプの書き手なのだろうか。(たなか・しんや、作家=「共(とも)喰(ぐ)い」で第146回芥川賞)
(毎日.jp 2012年1月26日)

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