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2011年11月13日 (日)

国際ンポジウム「世界文学とは何か?」@本郷

12日、東大本郷キャンパスで、上記のタイトルのシンポジウムがあったので行ってきました。ううむ……ここ数年の間に、本郷の落ち葉&ぎんなん掃除が著しく向上した気がする。20年前なんて、落ち葉を足でがしゃがしゃかき分けて歩かざるを得なかったり、ぎんなん踏んじゃったりしてましたが。

特別ゲストにハーヴァード大学のデイヴィッド・ダムロッシュ教授と作家の池澤夏樹さんをお迎えして、前半はこのお二人の講演、後半は柴田元幸、沼野充義、野谷文昭の三氏(いずれも同大文学部教授)を交えての討論という形式で行われました。

ダムロッシュさんは最近、日本でも代表作の一つである『世界文学とは何か?』(奥彩子・他/訳、国書刊行会、2011)が出版されて、注目を集めている研究者。池澤夏樹さんは言うまでもなく、河出書房新社の「世界文学全集」の個人編纂者。大教室の220席のキャパを超えて立ち見の出る大盛況でした。

ここで話された内容を全部要約するはさすがに私の手には余るので、幾つか印象に残ったことを。

シンポジウムそのものの内容についてはこちらのブログが詳しいです。
uporeke.com 「「世界文学とは何か?」デイヴィッド・ダムロッシュ、池澤夏樹+柴田元幸、沼野充義、野谷文昭」

全体の論調として、「翻訳」を肯定的にとらえているのがワタシ的には好印象でした。そりゃ登壇者たちがみな言っていたように「原語至上主義を通していたら、世界中の文学を読むことなんてできない」わけですからそりゃ当然と言えば当然でしょうけれど、「翻訳を通したら本当にその作品を理解するなんてことはできないのだから、世界中で文学を共有するのって限界あるよね。さてどうしましょう」というような悲観論が基調でないところが良い。「自分たちも含めて外国文学のセンセイたちは、学生にやたらと『原文で読め』と言いがちだが、いかなる場合でもそこに固執するのはどうかと思う」との発言もあり、全体として、文学を象牙の塔に閉じ込められものではなくて、「みんなが読む」ものという方向性が保たれていたことは改めてここに記しておいても良いことだと思います。

このシンポジウムの後にハシゴしたドストエフスキー関係の研究会では、在野の研究者たちが相も変わらず「せっかく名訳があるのに現代語にすり寄った新訳なんて」という話になって(やっぱりね)……。しかしそのちょうど二時間ほど前、ダムロッシュさんは「翻訳はどうしてもすぐに古くなってしまうので、その時代に合う翻訳は必要。自国の古典文学をそれが書かれた当時の原文で読む人はいるけど、外国人が『神曲』をわざわざ古い翻訳で読んだりしないでしょう?」と言っていたけど、私はやはりダムロッシュさんのほうに賛成ですね。ことに露文のやや古めかしい考えを持っている人って、すぐに「当時のロシア社会のことを理解させることのできる翻訳」とか言い出すけど、彼らは文学的理解と社会的理解、言語としての精度など、幾つかの問題を混同して考えているような気がする。そして、大学のプロの研究者ってどうしても「象牙の塔」とか陳腐なイメージを持たれがちだけど、私の実感としては、大学の先生たちはわりと自由にものを考えている一方で、むしろ在野の研究者のほうがヤヴァイ、アタマ固いと感じることが多い。大学は否応なく若い世代と接するけど、在野の研究者の場合、世代で固まっちゃうことが多いからかなあ。カリスマ的な中心人物の周りに集まった「その世代の人」が塊になって年取ってゆくのを見ていると、やっぱり大学みたいに強制的にいろんな世代と接触するようになっている場は良いものだと思うことです。

そして何より私にとって衝撃的だったのは、今まで私とはまっっっったく違う世界で小説を書いているように思っていた池澤さんが、意外に私と同じ方向性でものを考えていたということ。「世界文学全集」が何故、「絶対に外せなそうな大古典」ではなく、近現代の作品でできているのか、池澤さんは「絶対的な名作だったら、もうみんな持ってるか、手に入れようとしたらすぐ手に入るでしょう? そういうもので全集を作るのだったら誰がやっても同じ。編者が自分である意味がない。まだそこまで名作扱いされていない近現代の作品でアクチュアルな影響力を持った作品を(自分の目で)選びたかった」という趣旨のことをおっしゃってましたが、私が『時間はだれも待ってくれない』でやりたかったのは、まさにコレです。レムやチャペックの作品が重要であることは論を待たないとしても、今このタイミングで、そして他の誰かではなく私が、そういう大古典を編纂してもなんの意味もないわけで。その他、自作の執筆の態度とか共感することが多くてびっくりしました。意外。ああ……また池澤作品も再読しよう。

でもこういう文学関係のシンポジウムとか研究会などでいつも不満に思うことが一つ。それは、研究者って、「作家は作品の全てを意図的にコントロールできてる」かのように考えがちなところ。ネット時代になったからとか、世界文学を意識したからといって、それで作品が変幻自在に変えられるわけじゃないのよ。ましてや、世界文学を意識するとか翻訳されることを意識するとかが執筆のモチベーションになるわけじゃない。もっと言うと、読者にコレを伝えたいとか、この手法を世に問いたいとかが執筆のモチベーションそのものなわけじゃないということ。人間が小説なんてものを書いちゃうのは、思想とか意見とか手法とは別な、もっと原始的、無意識的なところからやってくるダイモーンに突き動かされて「書かされている」ものだということは、全ての文学研究者に忘れないでいて欲しいと思うところです。討論の後の質疑の時間にちよっとだけ発言させていただいたものの、まとまりが悪くてorzだったのですが、私の後に住谷春也さんに、エリアーデが持っていた「昼の精神(学術的研究)」と「夜の精神(文学的創造力)」の話でまとめていただいて、どうにか助かりましたが(東欧アンソロジーの時から住谷さんには助けていただきっぱなしです。何の恩返しもできてねえ)。

この「原始的な何かに書かされている」の話は今年の英文学会の時にもちょっとしましたが、やっぱり、もっと自分の中でまとめておく必要を感じますね。

東欧アンソロジーの関係者の方々も何人もいらっしゃってたので懇親会にも出たかったのですが、前述の通り、ドストエフスキーにハシゴ。ろくに挨拶もしないでバックレた形にorz すみませんすみません。 

いやあ、それにしても、文学の研究って、歴史の研究とはずいぶん違うなあ。なんか、どこの分野でもはぐれ者化している自分をなんとかしたい。たかが作家の分際で研究者ヅラする気はかけらもないけど、どこに行ってもヨソ者な気がするのがちょっとしんどい。……いやまあ、どこか属するところがなんてあると思っちゃダメかもしんないけど。

2012年3月付記:当日の討論は東京大学現代文芸論研究室で刊行している年刊の研究誌『れにくさ』の第3号に書き起こしが掲載されるそうです。年度内刊行とのことなので、4月までには出来ているはず。非売品の刊行物ですが、各大学の紀要等を収蔵している大学図書館等で閲覧できると思います。

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コメント

質問がありましたので公開でお答えします。

確かに、「カリスマ的な中心人物の周りに集まった「その世代の人」が塊になって年取ってゆく」の部分には具体的な対象があります。ぶっちゃけ質問者のご想像の通りです。エイゼンシュテイン・シネクラブも、ロシア・アヴァンギャルド・サロンも、日本ユーラシア協会も、日ロ協会も、年齢層むちゃくちゃ高いし、なのにロシアそのものやロシア映画、ロシア・アヴァンギャルドに興味を持っている若い人がいないわけじゃないのに、若い世代が入ってこないという状況ですから。世代の塊の年齢が上がってゆくと、昔の人礼賛、イマドキの人批判みたいなこともあって、なんかもう……なんちうか、いたたまれません。井上ももうそろそろ、上の世代ばかりと付き合うことのないよう意識したほうがいいんじゃないかなと思うことがあります。でないと、世代の塊のパターンの繰り返しになっちゃうので。

在野という立場は本来はアカデミックな立場より自由なはずなのですから、自ら硬直化しないでほしいと願うばかりです。

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