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2010年11月29日 (月)

坂本龍馬とロシア正教

龍馬が死んでしもうたがじゃ! 分かっちょったことじゃが、ショックぜよ。儂はのう、ここ一年ほどの間に、龍馬が暗殺されるのを二回も見てしもうたがじゃ(去年は歌舞伎を見に行ったから)。ものすごく龍馬ファンというわけやないけど、やっぱり泣けてしまうぜよ。今日はどっちかっちゅうたら、暗殺のシーンよりも、オープニングの長次郎の饅頭で乾杯のほうが泣けたがじゃ……

というわけで、「龍馬伝」が終わってしまいました。かつてこれほどまでに熱心に大河ドラマを見たことがあるたろうか(いや、無い)。役者の演技という点では、暗殺シーンでは福山雅治の龍馬より、上川隆也の中岡慎太郎のほうがよかった。だんだん力が入らなくなって声がかすれてくるあたり、命が尽きようとしている感があってね(実際には中岡は龍馬より一日ほど長く生きたらしい)。正直、上川隆也って今まで特に興味はなかったんだけど、すいません、って思ったことです。この演技と一緒に映らなきゃならなかった福山龍馬には厳しい結果になってしまったか。でも、今回の龍馬役は、ここに至るまでの全体に価値があるので、これで大きく傷がついたとは思いませんが。

オープニングの桂浜の夢で、元気な姿の佐藤健の以蔵が見られて、ちょっと救われた気がします。いや~、前半は以蔵が光ったねえ。彼も拷問が進むにつれてどんどん声が出なくなってゆく感じを出してて、でも眼だけは人切りをしていた時同様に不自然に力があって、この人はほんとにカワイコちゃんイケメンアイドルみたいな顔していながら、中身はすごい「役者」だとつづく思ったことです。総集編も見ないとね。

ところで、「龍馬伝」を見てて一番驚いた史実は、山本琢磨でしょうか。「龍馬伝」では、拾い物の金時計を売ってしまい、龍馬に助けられて江戸を脱出した、というところまでしか登場しないけど、本編の後の「龍馬伝紀行」で、その後の山本琢磨のことを紹介してて、彼がその後函館に渡り、ロシア正教に改宗して、日本人初の神品(正教司教)になって、神田のニコライ堂の建設にも関わったと知ってビックリ。う……でも、ちよっと中村喜和さんの本で読んだことがあるような気がうっすらとする……でもうちは井上も私も完全に忘れきっていたので、テレビの前で「う~そ~?! まじで~?!」と叫んでしまいましたよ。これ、史実だから仕方ない(?)けど、フィクションでこんなことやったら、話作りすぎと言われて馬鹿にされるよ……。もし山本琢磨が土佐勤王党に切腹させられていたら、江戸で捕縛されていたら(この場合、管轄は火付盗賊改メ方なんでしょうか?それとも町奉行?)……いずれ日本人の正教司祭は現れていただろうし、正教の伝道自体が止まるほどの歴史的影響はなかったかもしれないけど、ニコライ堂の建設自体は少し遅れることになったかも、とちょっと思う。ニコライ堂の建設が遅れに遅れているところに日露戦争が始まり……なんていうことになっていたら、果たしてニコライ堂は今の姿で建っていたかどうか……とかいろいろ妄想してみたりする。

今年は龍馬病にかかって何か普段はやらないような大きい計画に手を付けてしまった日本人は多かろうと思いますが、実は私もその一人です(笑)。ロシアと東欧のアンソロジー、来年の早いうちに出ます。もう60人くらいの人たちと連絡取ってるかな。半分はガイコクの人だなあ。こう言うとまるで国際的に活躍しているかのようですが、実は作業の大半は集合住宅の六畳間でパソコンに向かっているだけな罠。インターネット万歳(笑)!

完成までに龍馬病が治ってしまわないよう、これを貼っておきます。

龍馬伝 - 佐藤直紀 [音声非圧縮の超高音質版]

2010年11月26日 (金)

いかにも「時代」という感じですが……

改正常用漢字表、30日に内閣告示、閣議で正式決定(追加された漢字と削除された漢字)

「鬱」が常用漢字に入るらしい。「淫」とか「怨」、「呪」「妖」なんかも。ふ~ん。しかし、北関東もんとして何よりショックなのは、「茨」「栃」「埼」が今まで常用漢字じゃなかったってことだ……。常用漢字表なんてしげしげとながめたことがないので、気がつかなかった……

そうか……やっと常用漢字になったんだ……

2010年11月24日 (水)

アマゾン・アイティ?

Amazon.it

アマゾン.itができました。「アイティ」ではなくてイタリアね さ、これでウンベルト・エーコやエンリコ・フェルミの原書も簡単に買えるようになるわね!

……買わないけど。読めないから

2010年11月19日 (金)

ストルガツキーの『収容所惑星2 武力衝突』上映

そうだった。いっつもこれを予告しなくちゃと思いつつ流れちゃうので、直前だけどがんばろう。

11月20日(土)、14:00開会、東京・経堂の日ソ会館(東京ロシア語学院)で、ストルガツキーの『収容所惑星』をフョードル・ボンダルチュク監督が映画化した映画を上映します。フョードル・ボンダルチュクって、あの『第九中隊』の監督です。

この映画、タイトルから想像される通り「1」もあるんだけど、一辺に上映すると長くなるし、どちらかというと2のほうがよいのだそうで、とりあえず今回は2だけ上映します。

字幕はここ一、二年の間、『中継基地』、『続・運命の皮肉』、『ルサルカ―水の精の恋』、『一部屋半あるいは祖国への感傷旅行』、『第九中隊』の翻訳と字幕つけをしてきた井上徹が担当。

ここの上映会で取り上げられる映画は、ほんとは映画館や配給会社がんばって、日本でフツウに上位されるべきレベルのもの。でもお金の問題とか、いろいろありまして……(文学以上に利権に食い込んでこようとする人はいるようで)なかなか普通にお目にかかれないシロモノなのが残念なところ。ちょっと小さいスクリーンではありますが、今、日本で『収容所惑星』が見られるのはここだけなので、ぜひ、見に来てください。会費は一般500円。途中の道にカルディがあるので、買い物して帰れます(笑)。

2010年11月15日 (月)

遅塚先生のご葬儀に行ってまいりました

本日、遅塚忠躬のご葬儀に参列してまいりました。自分自身の免疫力がちょっと怪しいことになっているので(まあ季節の風物詩程度ですが)、お通夜には参加できませんでした。

学会で遠くから拝見したことしかないような重鎮の先生方から、私のような吹けば飛ぶような弟子まで、大勢の参列者が集まりました。式自体はびっくりするくらい簡素に済んでしまって、これも遅塚先生らしいと言えるかもしれません(「儀式なんか長々とやってたってしょうがないんだから」とか言われそう)。控室は研究会や学会の報告、打ち合わせがあちこちでなされていて、ほとんど学会のロビー状態。むしろそれで、誰もが心から遅塚先生のためにここに来ているのだという実感が持てました。

遅塚先生のお顔は本当に安らかで、また新たな研究の充電のためにちょっと休んでいるだけのように見えました。

湿っぽくなりすぎず、徒に形ばかり荘厳であったりもせず、よいお式だったと思います。

昨日まではただ悲しいばかりでしたが、今日、遅塚先生ゆかりの大勢の方と接することで、遅塚先生は研究成果や日本のフランス近世史研究の気質、門下生の在り様の中にずっと生き続けているのだという「不死性」を感じて、少し気持ちは落ち着きました。

正直に言うと、私も訃報に接して慌てて『史学概論』を購入したくちです。確かにけっこうなお値段なので、アンソロジーのギャラが入ってから……買ったら先生んちに遊びに行ってサイン入れてもらおう、などと呑気に考えていました。今、「はしがき」と「むすび」だけ読んでしまいました。「むすび」に「本書には弱点が多々あるが、それでもいま本書を刊行したのは、誰かがまとまった史学概論を書かねばという義務感に駆られたからであり、本書を今後の議論の材料とするためである」という趣旨の文がありますが、これ、私がロシア・東欧アンソロジーを作り始めた時から関係者にずっと言ってきたことと同じなのでびっくりしました。そう、私のこの無謀計画実行のルーツって、やっぱり遅塚先生にあるんですよ。遅塚先生は「ただ考えるだけじゃしょうがないんだから、やんなさい、やんなさい」って、よくいろんな人に言ってましたっけ。こういう研究をしてみたい、ここに留学したい……等、いったん遅塚先生の前で言っちゃうと、「大学でも文書館でも、紹介状が必要だったら書くから行きなさい。その関係の史料はあそこにあるからその研究やんなさい」と言われて、漠然とした夢じゃなくて具体的な努力目標になっちゃう。でも確かに、完全じゃなくてもとにかく行動とないといけないこと、将来につなげるために今やらないといけないことというのはたくさんあって、時間は無限じゃないんだから、遅塚先生の「だったらやんなさい」は至言だと思いますよ。

私のアンソロジーが刊行されたら、批判する人は必ずいるでしょう。でも、それでええねん。東欧全国の全文学作品を吟味しつくして、その中の絶対的最上級の作品を全ての国について集めれば、そりゃ~カンペキでしょう。でも、実際にはそういうカンペキさは現状では誰がやっても無理。それじゃそのカンペキさに届かないからといって何もしないでいるわけにはいかない。最高級の作品であろうがなかろうが日本に紹介すべきいい小説はたくさんあるのだから、そういういい作品を何篇かでも紹介できればそれでええねん。傾向や選定が不満な人は、だったらその人がその人なりの基準と努力で自分のアンソロジーを作って、また違った作品を日本に紹介すればいいだけのこと。そしたらまた新たなアンソロジーが読めるようになるんだから、それでいいじゃん。

まだ生きている者たちはそういうこの世での仕事をまっとうしないといけない。そう、たとえロシアがメンドウとか、いろいろ困難はあっても、です。

そのためには……あ、そうか、まず風邪を治さないとけないので、今日はちょっと早めに寝ます。

2010年11月14日 (日)

大衝撃! 訃報 遅塚忠躬先生

そのスジから回状が回ってきました。今現在フランス革命史関係の研究室と直接かかわりがなくて連絡が行きわたっていない関係者も多いので、連絡事項としてここで公開いたします。

遅塚忠躬先生が今朝(11月13日)9時12分にお亡くなりになりました。お通夜は11月14日(日)18:00~19:00、告別式は11月15日(月)12:00~13:00、いずれも目黒碑文谷会館(〒152-0003
目黒区碑文谷4丁目21-10、 電話03-5722-9111、 東急東横線 都立大学駅 徒歩8分、もしくは東急バス
目黒駅⇔大岡山小学校(黒01系統) または大森駅⇔新代田駅(森91系統)で、いずれも「平町」停留所下車0分)です。

衝撃過ぎて言葉もないです。今日、私が風邪で寝込んでいる間に故二宮宏之先生のところへ行ってしまった……。ロシアと東欧(と、将来的にはフランスを含んだ西欧の)アンソロジーの完成報告も、「日本SF全集」掲載の報告もできませんでした……

遅塚忠躬最後の弟子と言われつつ、研究者としては使い物にならなくて作家などと言いヤクザな仕事をしてますが、学問的には研究者よりだいぶ落ちるとはいえ、私はこの仕事で歴史学にはつながっていたつもりだし、少なくとも遅塚の弟子と名乗って恥ずかしくないだけの仕事もしてきたつもりです。

デビュー作の『ムジカ・マキーナ』は書き始めが実は修論の執筆と重なっていて、実はそのデビュー作以前に初稿が存在した『架空の王国』はまさに歴史に関する物語だったし、どちらも遅塚先生のところで学んでいた時に考えたことやら何やらが基礎になっています。まさしく、私が今日作家としてあるのは遅塚先生のおかげだと思っています。作家として誰かに弟子入りしたり、何かの講座を受講したり、教えをうけたりしたことはないので、そういう意味では、作家としての私の唯一の師だと言っても過言ではないのです。

遅塚先生は、才能があってやる気のある学生や研究者にはすごく厳しく、才能があろうがなかろうがやる気のない人はスルーで、才能はないけどやる気のある人にはすごーく甘かった……。当然、私には甘かったですね。修士課程を修了した後でも、ご自宅に遊びに行ったり、ドジョウをごちそうになったりしてました。ほんとに私には甘かったなあ。研究する気はすっごくあったけど、カラダ弱いし、才能がないのは丸わかりだったし、要するに「かわいそうな子」だったから。東大では禁帯出のアルシーヴ・パルルマンテールも、私が修論書いてる間は私蔵のを無造作に貸してくださいました。その恩に報いるレベルの修論は私には書けなかったけど、遅塚先生は最初からそうなることは分かっていたのだと思います。

今までに自著の献呈は一度の例外を除いてしたことはないです。その例外が遅塚先生に献呈した『架空の王国』。ワタシ的にはこれは修論の提出し直しのような作品だと思っています。今読むといろんな意味でトホホなところはあるわけですが……

でも遅塚先生はこのバカ弟子のやくざな仕事を結構嬉しそうに見ていてくださって、私としてはそれで幸せだったのです。

昨夜、夫と「和風総本家」の江戸っ子特集を見ながら、私にとっては江戸っ子と言ったら遅塚先生だなあ、という話をしていたところでした。ロシア・東欧アンソロジーが年内にはちょっと無理かもしれないので、完成してから報告じゃなくて、「短編ベストコレクション 現代の小説2010」とSFマガジンの10月号ををお送りして活動報告をしよう、と思っていたところでもあたのですが……

遅塚先生はフランス政府からシュヴァリエの肩書きをもらって「大御所様」になってから久しく経ってもほんとうに偉ぶるところがみじんもなく、だけと自然に品格と威厳があって、粋でカッコよくて、いかにも若い女の子向けのかわいいレストランなども喜ぶ感性があって、誰と誰が同棲してるの別れたのという話も平気で学生としてて(これはフランス史全般がそういう雰囲気なのですが、遅塚先生はことのほか粋な余裕がありました)、自分で出汁にこだわった美味しい煮物を作って遊びに来た私たちをもてなしてくれて、アルシーヴ・ナシオナルで居眠りして美人の司書に注意されちゃったとかパリの石畳で疲労骨折したとかいう話も楽しそうにしてて、何をやっても温かみと人情味のある、本物の騎士で江戸っ子で学究の徒でした。

私はこれからも学術的には研究者レベルになることはないだろうけど、「歴史改変小説の作家」といえば高野史緒だなと言われ続けるよう、自分にできる限りの努力をしていきたいと思っています。そしていつまで経っても「私が今日あるのは遅塚先生のおかげで……」という話をしたい。それで遅塚先生の名を耳にする人を増やし、記憶を新たにする人を絶やさないようにしたい。フランス史に直接興味を持っていない人でも、私の小説を読む読者さんはすべからく、間接的に遅塚先生の影響力のもとにあるとも言えるのだし。

Requiescat in Pace.

*追記:遅塚先生の最後の著書はこちら。
『史学概論』

2010年11月13日 (土)

ヤマト売ります!

宇宙軽トラ ヤマト ~ 天草編

すげ~! 何がすごいのか説明するのが難しいくらいすごい。突っ込みどころがありすぎて突っ込みをためらう。全部読めてないけど、質問と回答もネタまみれ。実際に落札できちゃってもみんな逃げるんだろうな……

2010年11月 4日 (木)

ウィーン・フィルの公開リハーサル

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友達の尻馬に乗ってVPOの公開リハーサルを見てきました。実はVPOの生リハは今まで見たことなくて、昨日の夕方までワクワクウキウキだったのですが……一転、こういうことに。

来日中のウィーン・フィル団員、富士山で滑落死

 3日午後1時頃、富士山8合目の山小屋「上江戸屋」付近で、オーストリア国籍でウィーン・フィルハーモニー管弦楽団員ゲオルク・シュトラッカさん(41)が登山中に約300メートル滑落した。
 静岡県警山岳救助隊員が救助したが、約5時間半後に死亡が確認された。
 御殿場署の発表によると、シュトラッカさんは3日朝、滞在先の東京都内のホテルを出発し、楽団の同僚男性1人と一緒に冬山装備で富士山に登ったという。同署で滑落の原因を調べている。
 同楽団は今月1日からサントリーホール(東京都港区)で公演を行っており、シュトラッカさんはコントラバスを担当していた。3日は公演などがなく、団員は自由行動をしていた。
 富士山の登山道は冬季期間のため閉鎖されている。
(2010年11月3日21時12分 読売新聞)



サントリー・ホールの前のオーストリアと日本の国旗は半旗になってるし、開演は遅れるし、VPOにコネのある人も多いので、新聞には載ってない生々しい情報も入って来るし。今日はこの事故の後初めてのゲネプロなのでどうなることかと心配したけど、そこはさすが世界一と言われるオケ、何事もなかったかのようにリハーサル。

客層は若者(音大生&音高生)と中高年(VPO友の会会員と何らかのコネのある人)に極端に二極化。二階の半分くらいに人を入れて、当然っちゃ当然かもしれないけど客の存在は完全無視で開始。団員はみんな私服。コントラバスもちゃんと6人いたので、非番の奏者が補完している模様。

指揮者は小沢の代打のサロネンの代打のジョルジュ・プレートル。御年86歳!! だけど最初から最後まで立ちっぱなしで、ドイツ語で指示したりうなったりしながら指揮!! ウォーミングアップもなしにいきなり「英雄」から始まって(演目を知らないで行っちゃったので、一人脳内イントロ当てクイズにw)、第一楽章の冒頭と終楽章のコーダを特に念入りにやり直す。あとはブラームスのハンガリー舞曲一番をざっと見て、いかにもアンコール用なトリッチ・トラッチ・ポルカを一回通して(これはVPOにとっては「目ェつぶってても歩ける」曲だしね)プレートルの出番は終わり。最後に弦だけ残って「G線上のアリア」を二小節だけ(!)やって、ああもういいや~って感じで流れ解散。

あの二小節だけのバッハの指揮者はラトヴィア人の若手指揮者、アンドリス・ネルソンス。いやしかし、ちょっとアインザッツ入れて流しただけで、「指揮した」というほどのことではなかったんだけど、あれ何だったんだろう? 弦セクションのアインザッツを見ただけだったのかなあ。

なんちうか、アレですね、「美人は寝起きでも美しい。ジャージ着ても美しい」って感じですか。全然本気出してない演奏でも、「ここまでできるオケはめったにないよね~」っていうレベル。ああいう最高レベルのオケを批判するのがカッコイイという風潮はいつの時代でもあるけど、やっぱり素直に聴いた方が楽しいと思うけどなあ。

さすがにVPO友の会のパーティは中止。「英雄」はよりによって第二楽章は低弦セクションが活躍する葬送行進曲なのよね……。本番の出来は如何に?

合掌。

2010年11月 3日 (水)

『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』

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ゾラン・ジヴコヴィチさん(名前の表記法については後述)と黒田藩プレスのエドワード・リプセットさんから、『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』をいただきました。

旧ユーゴスラビア・ベオグラード出身の現代作家。実は今私が作っている『新東欧SF傑作集(仮)』のセルビア代表もこの人。作品を選定している段階では黒田藩プレスで短編集の計画があることは知らなくて、こちらの企画とは全然関係なく選んだので、どちらがどちらに便乗したとか、そういうことではないです。

黒田藩プレスの短編集に収録されているのは、「ティーショップ」、「火事」 、「換気口」の三篇。翻訳者は山田順子さん、つまり、セルビア語から直接の翻訳ではなく、英語からの重訳。どの作品もまさに「不思議な物語」。飾り立てない文章で、読者に対して強く何かを主張してくるわけでもないけれど、読後には多くのものを残す。でも多分、「これはきっと○○の象徴だろう」とか、「この世界の設定はこうだ」とかいう読みをする人は、かえって足元をすくわれるかも。

ただ、イラストでネタバレがあるのが惜しい。作った側は自分のセンスを見せた!と自慢に思ってるかもしれないけど、作品のためにはマイナスでしかない。こういうのはホントにやっちゃいけないことだと思う。私が作者ならマジギレる。

私の企画が進んできた頃にリプセットさんからこの短編集のことを聞き、作品のチョイスが重ならないよう、ジヴコヴィチさん本人と翻訳者の山崎信一さん、アドヴァイザーの奥彩子さん、私の四人でいろいろ相談して、うちんとこの収録作を決めました。黒田藩プレス版の三作もいいけど、うちの選定にも自信あるよ。ふふん。それに何しろうちは「史上初、セルビア語からの直接翻訳」ですんで。もっとも、ジウコヴィチのように凝りすぎない文体で語るタイプの作家の場合、ヨーロッパ語からの重訳ならば、さほど大きな問題はないかと思いますが(これがブルーノ・シュルツとかロブ=グリエとかだったら誤訳の嵐になったかもしれないけど)。

で、「ジフコヴィッチ」or「ジヴコヴィチ」の表記問題ですが。

セルビア語での綴りは「Zoran Živković」。リプセットさんは、ジヴコヴィチさん本人に発音してもらった音声ファイルを複数の日本人に聞いてもらった結果、「ジフコヴィッチ」と聞えるということでこの表記を採用したとのこと。私もこの音声ファイルもらったけど……うぐぐう、悩ましい。確かに、日本人的な耳ではそう聞こえるというか……ひとつ目の「v」は「う」に「゛」の点が一個、くらいの感じ。もともとスラヴ語の「v(в)」については、日本語で表記する時異同があるし(イワンorイヴァン等)、前後の関係で発音が変わることがある。なので、「Živković」についても、「ジフコヴィッチ」という表記は確かに存在する。しかし(以下、多少訂正します)vの発音は無声化はしないものだそうで、「撥音も旧ユーゴ関係は省くという方向性で統一されており、来年発売予定の岩波世界人名事典の原稿も、旧ユーゴ関係は撥音を抜くほうで統一されているだろう」とのこと。

私ももともと、「ショスタコーヴィッチ」ではなく「ショスタコーヴィチ」と書くというように、撥音は抜く方法で表記しているので(『マルコヴィッチの穴』のように、作品タイトルとして統一されているものはその表記に従う。あとは時々、シチュエーションによって日和ることもないではないですすみません)、撥音は抜くの方向性に統一するのはむしろ望ましい。

セルビア語・セルビア文学関係の人たちは、もともと、作曲家や軍人のŽivkovićさんたちは「ジヴコヴィチ」と表記している。というわけで、私のアンソロジーのほうでは、やはり「ジヴコヴィチ」表記を採用することにしたわけです。

もちろん、ネット検索や書籍のデータベースのことを考えたら統一したほうがいいのは当然だけど、どうせ統一するのだったら、そりゃ言語学的に正確で、かつ検索上も有利な「ジヴコヴィチ」表記でしょう。ああ……リプセットさん、どうせならもっと早く相談してくれればよかったのに……orz ていうか、もっともっと前に言ってくれれば、セルビア語の文学翻訳ができる人を紹介できたのに。英語からの重訳なんかしないで済んだのに。返す返すも惜しい話であります。

『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』の購入はこちらから。ISBNコードは取得しているものの、東販とかの流通に乗せていない手売り状態なので、Amazonとかで手に入らないのがちょっとツライところ。しかし、こういう本を作ってくれる出版社にこそちゃんと利益が出るべきだと思うので、どうかみなさん買ってください。

追記(11月25日):Amazon.comから買えるようになりました! 英語版はもともとAmazon.comで買えます。でも日本から買うなら黒田藩プレスから直接買うのが一番早くてラクです。

恥ずかしながら、ジヴコヴィッチさんから英語版の著書を送ってもらって初めてその出版社も黒田藩プレスであることを知った次第。ほんとに、こういう出版社にはちゃんとその仕事に見合った収益があるべきだと思うことです。

私の方のアンソロジーはまだちょっとかかりそうです。ええ。、ご想像通り、事務処理が異様に遅い国というのが存在するので ……どことは言わないけど。言わないけどさ~ どうりでこの手のアンソロジー作る人がいないはずだよ…… 

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