昨日、早稲田の露文の「ロシア的主体の系譜」プロジェクト研究会に混ざってきました。ロシア語ほとんど分かんないのに参加してるワタシ 今回はスラブ研究所から友達が来たり、井上が発表者の一人だったりしたから行ったのです(言い訳)。
私にとって一番衝撃だったのが、創価大の寒河江光徳(さがえ・みつのり)さんの研究報告「メタフィジック・リアリズムについて -マムレーエフ・エロフェーエフの作品を読みながら」でした。まずタイトルからして大衝撃。
え……?
何?
メタフィジチェスキー・リアリズム?!
それって最初から「リアリズム」じゃないんじゃ……
ってフツウ思うよね……
話を聞いてみると、作品自体は何というか、やっぱり「ファンタスチカ」なのよね。特に、詳しく紹介されたマムレーエフの「微の世界へのロシア的遠征」は、ストーリーもぶっ飛んでて、物理的・時間的にありえないことを縦横無尽にやりまくって、なんか放り出されたように終わってしまう。「理性至上主義」も否定されちゃってるし。でも、こういう作品を書く人たちが、自ら「なんとかリアリズム」を名乗るのがロシアの不思議なところ。「リアリズム」って何だ?
社会主義リアリズムってのは分かるし、整合してると思う。でもロシアの作家って、非現実的なファンタスチカを書いて何とかリアリズムと名乗ることが多いのよね。「ターボ・リアリズム」が流行った頃って、結局「ターポ・リアリズム」の作品を読んでも人に説明されても分かんなかった(私だけじゃないらしい。説明してるほうも結局よく分かってなかったし)。ロシア人の考える「リアリズム」って何なんだ? ということを報告後に質問してみたけど、露文の人たちも案外そこまで突き詰めていないらしい。っていうか、露文における「リアリズム」という言葉が当たり前になり過ぎちゃってるのか? 私みたいな部外者にはもーのすごーく気になるんですが。
で、その後の討論と、帰りに井上と話して見えてきたことがある。要するに、ロシア文学でいう(ひいてはロシア的な)「リアル」というのは、「表象の向こう側にある真実」みたいなもののことではないだろうか。そして文学でいう「なんとかリアリズム」の場合、非現実的なストーリーや描写を用いても、その向こう側にある「リアル」を表現しているのだから「リアリズム」なのだ、ってことなんじゃないだろうか。
ロシアのファンタスチカ作家たちは、「オレたちは非現実的な道具立てを使っているが、それは非現実的なものを描くためじゃなくて、『リアル』を描くための手段だ。たからオレたちは『幻想小説』を書いてるんじゃなくて『リアル』を描いているのだ」と言う(特に宮風耕治さんが向こうの作家たちと交流した時の話で聞いたこと)。要するにロシアにおける文学上の「リアル」ってこういうことなんでしょうね。だから「グロテスク・リアリズム」は「グロテスクをリアルに表現する文学」ではなく、「グロテスクを通して語られるリアルの文学」。「メタフィジチェスキー・リアリズム」は「メタフィジックな物語によって表現されるリアルの文学」。
って、要するに、西欧中世の普遍論争における「実念論」じゃないですか。「実念論」って元のラテン語は「realismus」ですよ。
そして、何故ロシアの作家がすぐに何とかリアリズムと名乗りたがるか。これは亀山さんがよく言うことにヒントがあるかもしれない(亀山郁夫さんと佐藤優さんとの対談でも言ってた)。曰く「ロシアでは詩人は尊敬されている。何故なら、彼らは真実を語るから。でも作家は『おはなしでウソをつく人たち』。作家が自分の本当の思想を以って小説を書くとは限らないからあてにならない(だからドストエフスキーの小説に現われる思想がドストエフスキー本来の思想であるとは言い切れず、小説を分析して『ドストエスキーは最後まで社会主義者だった』とか『実は無神論だ』とかの結論を出すことはできない、という話につながる)」。確かに、ロシアでは詩人って妙に尊敬されてるのよね。オクジャワやヴィソツキーは賞賛される時、「素晴らしい歌手」ではなく「素晴らしい詩人」と必ず言われるし、プーシキンも「素晴らしい作家」ではなく「素晴らしい詩人」と言われる。詩人は体制に反発してでも「真実」を詠うと見なされているけど、作家は「一見体制に迎合的で検閲を通る作品を書いていながら、実は裏読みできるようなやり方で舌を出す」と思われている。やはりどうしても作家より詩人のほうが「上」になっちゃうのよね。だから作家の側も、自ら「真実を語っているのだ」と名乗りたくなって、それですぐに「なんとかリアリズム」って言い出すんじゃないだろうか。
実際、亀山さんが「詩人は真実を語るけど、作家はホラをふくからあてにならない」という時、「おいおい、私は確かにホラを吹いているという自覚はあるけど、それは真実を語るためにホラを吹いとるんじゃ 文学を研究する人ならそこまで考えてくれ」と思うし、実際、言ったこともある。……まあ、でも、「ドストエフスキーの作品を解析して彼が社会主義者だとか違うとかいう話はできない」的な「あてにならなさ」が自分にもあることは認めますが。でも、「おはなしつくり」のために全面的にホラを吹いているわけではない。やはり「語るべき真実」があるからこそ書いているわけで、だからこそホラを吹いているわけなんだけど。日本人も亀山さんみたいな人ばっかりだったら、わたしもやっぱり「なんとかリアリズム」を名乗るかもしれない……。っていうか、『赤い星』のロシア語版が出てからロシアで「私は○○リアリズムなんだーーーーー!!」と叫ぶかも……
なにリアリズムにするか、今のうちに考えとこう……
研究会の後はサイゼリヤで飲み。14人でワインのマグナム瓶4本を空ける。ワインをつまみにビールを何杯も飲む人も。さすが露文だ……。フランス史はここまで飲まないっす 部外者を快く混ぜてくださった皆様、ありがとうございます。
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