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2009年9月 2日 (水)

ソクーロフの『ボヴァリー夫人』

ソクーロフの『ボヴァリー夫人』の試写見てきました。

1898年の167分(!)ヴァージョンを128分に再編集したもの。89年だから、劇映画の監督としては比較的初期の作品ですね。

ストーリーはほぼ原作のまま。だけど、舞台設定とかを「分かりやすく説明してくれる」わけではないので、原作を知らないと最初は入りづらいかも。

いかにも80年代ミニシアター系ヨーロッパ映画。羽やハエを象徴とも演出ともつかない形で何度も使ったり、時代設定は変えていないはずなのに車や飛行機やルイ・アームストロングの曲が出てきたり、もしかしてこのソ連末期の時代、ソクーロフもデレク・ジャーマンとかケン・ラッセルとかの映画を見るようになったのかな、という感じ。

しかし……どうも主演女優、セシル・ゼルヴダキがあかん。ソクーロフが偶然に見つけて気に入って起用した素人だそうだけど、何故わざわざそこまでしてリクルートしたのかなあ。年寄りじみた動作と年寄りじみた発声で(フランス語を喋ってる時はまだマシ)一本調子な演技を二時間も見せられちゃうので、正直、ザセツしかけた。ソクーロフはそもそも女に興味がないので、見た目だけで選んじゃったのかなあ。途中で「しまった」と思わなかったんだろうか。

しかし、もしかしたら、「ボヴァリズム」(理想と現実のギャップへの苦悩。まさしくこの『ボヴァリー夫人』が語源)というものの皮相性を描くために、あえてああいう素人を起用したのかなあ、と、いいほうに考えてみるテスト。真の底からの苦悩ではない皮相性をこそ追求したのか。もともと、主人公の内面を表現するような描き方はしていないし、そもそもソクーロフは女に興味ないんだから、女の苦悩を描きたいと思うわけがない(笑)。「皮相性」を「名演技」で表現されちゃったら、それは本物の「皮相性」ではなくなる。

そもそもボヴァリズムや不倫の苦悩って、はたから見てるとアホくさいものなのよね。理想と現実のギャップっていったって、要するに今の生活がダレてるなんかいいネタないの?っていうだけでしょ、って感じだったり、本人は運命の恋、一世一代の情熱だと思ってるかもしれないけど、結局は掃いて捨てるほどあるネット人生相談の一スレッドに過ぎなかったり。しかし当事者にとっては下らない、ありきたりと分かっていても脱出できないところが悲劇なわけだけど。ソクーロフは後者ではなく、前者の視点をあえて選んだのかも。何しろ「このシロート女優あかんわーgawk」と思いつつ、結局最後まで見てしまったことですよ。本当にキャスティングに失敗した失敗作だったら、絶対耐えられるわけないんだし。

結婚も手に入れたし、いろんな男に言い寄られて情事もできるけど、結局は誰からも本当には大事にされない女エマ。フロベールもソクーロフも、「女の苦悩」ではなく、「もしかしたら自分って、一見評価されてるようだけど、本当は誰にも心底から愛されてるわけじゃないのかも……」という自分自身の不安感をエマ・ボヴァリーの中に見ているからこそ、こういう作品を書いたり撮ったりするんじゃないだろうか、と思う。

そして、何よりこの映画のすごいところは、あの影像美でしょうねえ。構図の安定ポイントからちょっとだけずれたところに人物を配したり、微妙に露光が足りないように見えたり、色合いがあいまいだったりするだけで、何故あそこまで美しい影像が作れるのか。やっぱりああいうのを見ると、他の映画じゃなくてソクーロフの映画を見た甲斐があるなあ、と思うことです。

公開は9月下旬。東京は渋谷のイメージフォーラム、大阪ではシネヌーヴォで。劇場窓口でチケット買うと、オリジナル・クリアホルダーのおまけつきだそうです。

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