トルストイの子孫は農民の智恵の夢を見るか?
上智大学にウラジーミル・トルストイ(トルストイ記念館館長)の講演を聴きに行く。…………………………。本当は昨日の東大のほうに行きたかったのに。井上は未だに肝心な情報にかぎって伝えてくれないんだよなあ。
講演の時はフツウに「理想主義者」という印象だったけれど、質疑の間に、あ、この人は理想主義的でありすぎるが故に俗物になっちゃった人だ、と分ってしまう。文学が世界規模で商業主義的になってるというのは、そりゃそうだとは思うけど、だけど、だからといって「文学が今、世界規模で真空状態だ」とまでは思いますかねぇ。彼にとってはペレーヴィンでさえ「文学とは言えない通俗作品」だそうですから……。その一方で、(画家についての意見だけど)、レーピンやニコライ・ゲーのようないわゆる「名画」と、有名でない画家の作品をネームバリューできっぱりと峻別してしまう。この人にとって、文学とか名作とかいうものは、古典とその模倣だけなのか……?
そもそも「文学」というもの自体、そんなたいそうなもんか?と私は思っちゃうんだけどね~。
私はどちらかと言うと、「通俗的であるが故の智恵」みたいなものを信じているし、自分の作品も「通俗的であるが故の真理」を追究していると思っている。デビューして間もなくの頃、すごく印象的だった出来事があってですね。「普段、本なんて読まないけど、テクノ好きなので『ムジカ・マキーナ』を読んだ」という読者さんの感想がテクノ系音楽雑誌に載ってて、「どうにかこうにか読み通しただけなので、理解できてるかどうか分らない」というその人の感想は、高名な評論家でも指摘しなかったような、作者本人さえ書いていた時には意識していなかった、鋭く核心を突くものだったのですよ。その後もその手のことは何度もあって、気楽に書かれたネットでの感想が有名な諸表家のそれに匹敵するようなことはあるのですよね。
そしてまた、自分の読者・受け取り手としての体験の中にも同じことはあるわけで。つまり、通俗的な娯楽小説の中に人間性に関する鋭い洞察があってはっとしたり、大衆ウケ狙いのハリウッド映画の中に、生きてゆく上での糧になるような「何か」を見いだしたりもするわけです。
どちらかというと、「本物はごく少数の者にしか理解できない」的な選民思想の方がよほど有害じゃないかなあ。作家本人より取り巻きや崇拝者のほうがヤバくて怖い現象もそういう選民思想が根本にあるだろうし。
ウラジーミル・トルストイ氏は大トルストイが愛でた「農民の智恵」という概念を失ってると思う。芸術の価値なんてものは、作ってる本人にさえ把握し切れてない無意識や経験の蓄積の彼方からやって来るものであって、意図的に理想主義に至ろうとして作られるものじゃない、まさしく「農民の智恵」的なものだと思うんだけどね……
トルストイという看板を背負ってるだけに妙に批判しにくい人だけど、講演を聴いていて「何かヘンなんじゃないか」と思ったら、聴き手はその素朴な直感をもっと信じていいと思う。
ところで上智の図書館、久しぶりに行ったら、外壁のタイルのキラキラが取れちゃっててただの白いタイルになってましたね。あれってただ風雨に晒されてキラキラが取れちゃっただけなの? それともタイル取り替えたの? 上智の中の人、知ってたら教えて下さい。
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