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2008年3月21日 (金)

Use them together, use them in peace

Sri_pada_shadow なんちう恐ろしい時代や。

Google Earthからもらってきた画像です。

スリランカの聖山、スリ・パーダの「夜明けにできる円錐形の影」です。そう、『楽園の泉』の聖山スリカンダのモデルですね。「夜明けの影」の章で描かれた通りの……うわ……ほ、本当にこんななんだ……(驚)

初めて『楽園の泉』を読んだ中学生の頃は、百科事典の世界地図(実家にいまだにあるけど、何と! ベトナムが南北に分かれてるやつですぜ!)を眺めながら想像するのがせいぜいでしたが……

Google EarthにSri padaって入力すれば連れて行ってくれます(Adams peakって入力するとアメリカに連れて行かれちゃいます)。シギリヤの岩も見られます。そんなのを眺めながら、近親者に行く緊急連絡の速度で世界中に行き渡ったクラーク訃報各種を見に行ったり、その合間に旧ソ連の人とおおっぴらに好き勝手にメールして……なんていうことが、そこいらへんの集合住宅の六畳間からできてしまう時代。パソがノート型だったらこたつでやっていたことでしょう。ざっつ21世紀。でもこたつ(笑)。

しかし、そんな時代になってもクラークの作品が色褪せないのは、クラークは科学を「道具」にしてアイディア勝負の珍奇な話を書いたのではなく、科学という方法論を通して世界を見た時の新鮮な感動、色褪せない驚嘆を描いていたから……なんてひそかに思ってたりしたのだが、冬樹さんもそういうことを書いていたので、一気に自信を得て堂々と発言してみたりする。まさに「My God! It's full of stars!」なのだ。

そしてクラークの「科学的楽観主義」は、決してツッコミどころ満載のノーテンキなものではない。「科学という方法を使ったら、こんなこともできる、あんな考え方もできる。実現するには、これとこれを研究してみたらいいんじゃないだろうか。そうしたら、次の段階ではこんなことさえ可能だ。それは我々に『できること』なんじゃないか」と提言するような、冷静で穏やかな、狂信的でない楽観主義だ。

クラークはまた、イデオロギーや信仰、思想、歴史を背負った文化というものを決して「蒙昧」扱いしない。それらは敬意を払うべきものであり、「生きているもの」ではあるけれど、でも、どんな思想信条を持った者にも同じ結果を突きつける科学という視座を取り入れたら、あるいは人類以外の知性、地球外の視点というものにまで考えを広げてみたら、我々はお互い、今まで思っていた以上に気持ちよく協力して、抵抗なく妥協できるんじゃないだろうか、と、やはり、狂信的ではない態度で提言しているように思える。

『楽園の泉』も、単純な読み方をすれば、科学が古い宗教を追い払って、地球外の高度な文明にも認められるような輝かしい未来を築きました!というふうに読めなくもない。が、実際には、数千年の歴史を持つ文化は人類にとっては付け焼刃とも言える科学とは比べ物にならないほど老獪であり、強い生命力を持っていることをクラークはよく分かっていて、それは綿密に描かれている。ゴールドバーグ博士は科学という手段で寺院を守ろうとして、結局はその科学によって歴史という大地に墓穴を掘ってしまう。あのカーリダーサの梵鐘が鳴らされるシーンが私にとっては『楽園の泉』のクライマックスかなあ。もうね、その後のモーガン博士の命をかけた冒険はオマケだわと思っちゃうくらいだ。

クラーク自身がその出来に満足していたという映画版『2010年』でも、やっぱり、どれか特定のイデオロギーが「勝者」になるのでもなく、科学至上主義は信仰やイデオロギーといったような「蒙昧」を黙らせるべきものではない、ただ、科学や地球外の生命という視点を持ったなら……と、静かに確信に満ちて提言しているように思える。あれを最初に見た時(1985年かな)には、「なぁんだ、『2001年』に比べたらフツーのえすえふじゃん!」と思わんでもなかったけれど、やっぱりね、もうちょっと大人になってから見ると、それはそれ、これはこれでよいものだと思うことです。

「外交というものは、一方的に利益をあげればいいというものではなく、長期的な関係を築くために、双方に利益が出るようにすべきもの」と云うた人がおりますが……まあ、その発言意図自体に多分に戦略的なものはあるでしょうけれど(外交官の言うことなんか100%真に受けるやつはおらんわー(笑)<っていう、こういう考えもクラークの小説から感染った気がする)、その言葉そのものは真理だと思うし、それは政治レベルだけではなく、我々個々人が意識すべきことではないか……と、また『2010年』のDVDを見ながら思ったことです。また見たんかい(笑)。ええ見ましたとも。メイキングの映像で四半世紀前のクラークが動いて喋ってますがな。まあそれはともかく、この本と映画でも、思想の違うもの同士の共存のためには科学という方法論や、地球外の視点という仮定は役に立てるかもしれないよ……と、クラークがあの端正な語り口でそう言っているような気がするのでありますよ。

それにしても、HALが真実とチャンドラ博士の誠意を受け入れるシーンは、何度見ても泣けますね……

我々は皆、ちょっとずつクラークにならないといけない。何しろ我々は、もはやクラークが存在しない世界で生きていかなければならないのだから。そう、アーサー・C・クラークもカール・セーガンも存在しない世界で……

SFマガジン、今頃追悼特集のために忙しいだろうなあ(あの人とかこの人とかと並んで、すでに準備万端だったり、などという冗談もございますが)。数年前のクラーク特集の時と違って、ソレ系の若手も増えたことだし、思いっきり文系の私になんかもうお鉢は回って来ないだろうなあorz ま、しょうがないすね。ブログに好きなだけ書けばいいか。去年読み返した時、私の歴史改変の原点はもしかしたら『楽園の泉』だったかも、と思ったんで、その件については、いずれまたここに書きます。何しろネットってのは、事実上世界に向けて発信してるわけだし。うーん21世紀。でもこたつ(笑)。

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