亀山郁夫著「『カラマーゾフの兄弟』の続編を空想する」(光文社)を読み中。
タイトルまんまで、要するに、残された史料から(想像力を駆使しまくって)『カラマーゾフの兄弟』の「第二部」ってどんな構想だったんだろう、ということを妄想……じゃなくて、想像してみよう、という試み。いやあ、まず、そういうことを考えること自体がさすが亀ちゃん。去年、『カラマーゾフ』の新訳がありえねーほど売れた(全五巻合計で60万部超ですってよ奥様! 人気漫画でもフツウ、ないよね、その数値)勢いそのままに、己れのドストエフスキー愛を炸裂させた一冊である。……いつも以上にテンション高い。
新訳はねー、そこかしこが「ここは誤訳だ」とか「誤訳と言うより創作だね」とか言われちゃってて、批判もスゴイようなのだが、基本的には江川卓訳をもうちょっと噛み砕いたような感じで、それでより多くの人がこのめんどくさい大長編を読み通してくれて、何となく「過去のもの」っぽくなっていたロシア文学をアクチュアルな存在にしてくれるのなら、多少「ここんとこの訳はどうよ?」ってなところがあっても、功績の方が大きいんじゃないかと。売れ筋けっこう、大衆受け上等、それでいいじゃんと私は思う。その一方で、露文ギョーカイ内では訳文の適否について批判があるのが正常だろうと思うので、不都合なことは何も起こっていないと思う。
亀ちゃん本人は、この間スラ研の学会で会った時、妙に落ち込んでいましたが……。「批判もスゴくて……。でももう、枯淡の境地ですよ、ははは……」とか弱気なこと言ってましたが。ダメです。そんなんじゃ。批判はされているうちが華。というか、「ま、こんなもんでしょ? いいんじゃない?」と誰からも生ぬる~くあってもなくてもみたいに受け入れられるより、一方で大きな賞賛を得て、一方で厳しく批判されるようでなきゃイカン、くらいに思ってていいと思う。落ち込む時も盛り上がるときもハイテンションの大学学長。ドストエフスキーの登場人物みたいでイイじゃないですか。私は好きだよ亀ちゃん。むしろ「もっとやれ~!」って感じですが(笑)。
で。
史学出身の私にとって、亀山さんの著作には何とも言えない不満な感じがある。はっきり言って、「膨大な文章を書いてるヒマがあったら、一次史料の史料批判をしろ~!」と思うことがままあったり。亀山さんは「『作家の立場に回って』研究する、ということがとても大事」と言う。「一次史料の批判をやっていたら何も進まない」とも。確かに、そこが文学研究と史学研究の決定的な違いかもしれない。史学も、史料批判ばかりやってるわけじゃなくて、史料から浮かび上がってくる当時のその地域の人々の「心性」を最終的には妄想……じゃなくて想像するわけだし、文学研究も、著者の心に入ってゆくことが目標の一つであるだろうけど、そのために一次史料は何よりも重要になる。どちらも基本的には「史料から演繹する」という学問ではあるけれども、着地点が違う。お雑煮みたいなもんですかねえ。「白味噌の汁にあんもちを入れるなんてあり得ない!」「鶏の澄まし汁に角もち入れるだけなんて、うどんかよ!」とか思いあってるだけだったりして。
しかし、そういうジャンル的方法論の違いだけなら、他の研究者にもある。でも亀山さんにだけあるこの何とも言えない独特な感じは一体何なんだろう、とずっと思ってきたけれど……
『続編想像』(と本人は呼んでいるそうです)を読み始めて、その「何か」がちょっと分かった気が。
文学に携わる人間には、大雑把に言って三種類あると思う。文学論を論じる人、小説を書く人、そして、その両方ができる人(「ちょっとした書評ができるかどうか」はこの場合関係ないと思うので)。第三のカテゴリーは、ミラン・クンデラとか、ホルヘ・ルイス・ボルヘスとか、荻野アンナとか、佐藤亜紀とか、真の「Ecrivain」の領域。で、私は、亀山さんは私とかと同じ、「小説を書く人」の心性の人なんじゃないかと思うのですよ。文学論の側の人というより、小説を書く人。
もしかしたら、史料から演繹したカラマーゾフの続編を考察するより、本当に続編を書いちゃうほうが向いてるんじゃないだろうか。
小説として「研究の集大成」をするのもアリなんじゃないだろうか。
そしたら、他の「フツウの」研究者が批判するような妄想っぽいところも、思う存分バクハツさせられるし、それは「研究上の欠点」ではなく、「文学」になる。
いやあ。、ホントに書くなら協力しますよ。
亀山郁夫&高野史緒 共著 『カラマーゾフの兄弟』第二部。
…………。
……………………。
…………………………………………。
なんか。えすえふ業界からも露文業界からも妄想扱いされて終わりそうな本だ(笑)。
最近のコメント