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2006年10月 8日 (日)

象を連れて来い!

東京大学文学部の西洋近代語近代文学専修課程が来年度から現代文芸論専修過程として再編される節目に、ということで、「文学を読む/翻訳する/研究する」と題されたシンポジウムが本郷キャンパスで行われました。パネラーは三浦雅士、大橋洋一、柴田元幸、沼野充義。このメンツを「けっ」と思うか「おおっ」と思うかで行く・行かないはほぼ決まるでしょうなあ。私は「けっ」とも「おおっ」とも思わなかったけど、相方にくっついて、銀杏臭い本郷に行ってきました。とりあえず沼野さん喋るし。ぬまのっちダチだから(笑)。マブダチだから(笑)。

文学部1番大教室という広いところを使ったにもかかわらず、座りきれないほどの入り。学部生かと思われる若い人たちも多い。話はまあ……なんちうか、シンポジウムそのものが「21世紀にも文学部って必要だよね! ほら、こーんなに必要!」という主旨なので、偉大なる将軍様マンセーな内容になるのは、まあ仕方がないとして(汗)。大橋さんの「文学専攻でない人が書いた文学評論の本にはこんなに間違いが! 引用文も原文に当たってないし、作家の背景についても何も調べてない!」とか、柴田さんの「翻訳をただ翻訳ソフトのようにやる『作業』だと思っている若い人が多い。が、翻訳は『解釈』を経てこそ可能なもの。語学だけ身に着ければできるというものではない」等々の御言葉が続く。すんません、三浦さんの話──言語の肉体化、「腑に落ちる」ということ云々──だけ、私にはなんか「腑に落ちなかった」です。

いちいちごもっともで、反論する気はないんだけど、なんちうか、分析とか文学評論って、つくづく書いてる人間を蚊帳の外にしてやるものなんだなあ、と思わずにはいられない。もっとも、てめえの書くものなんざ単なる娯楽で、文学とは程遠いのだから蚊帳の外なのは当然だと言われてしまえばそれまでだけど。

沼野さんはそういう書き手が蚊帳の外なのはよくない、できるだけ書き手とも接触を持ちたい、という論調。アメリカの大学で露文の教授にナボコフを連れてこよう、という案が出た時、露文学者ヤコブソンが「ゾウの研究をするのにゾウを教授にする必要はない!」(何で象なのかというと、アメリカのいわゆる「エレファント・ジョーク」ちうやつです)、とか何とか言って反対したという逸話を引用して、沼野さん的には、「ゾウばっかりになっちゃっても困るけど、ゾウも連れて来たい」と。

しかしぬまのっちの話の中でも、『ロリータ』の冒頭の、ロリータの名前の発音について書かれている部分は、みんなあまり指摘しないけど英語ではなくロシア語の発音が念頭に置かれている、ナボコフほど両方の言語に精通した人でも、ふとした時に潜在したロシアが現れてくるのではないか(だから、作品を真に深く理解するには文学部の研究者としての修練が必要、というところに向かうわけですよね、この話)、なんてのを聞いていると……

よほど超人的な「文学部の研究者としての能力」を発揮しないと作品の真の理解はないってことかなあ……そうかもしんないなあ……と、なんか心細いキモチになる。

さらにぬまのっちは、ブラート・オクジャワの「アルバート通り」という詩に出てくる「他の4万の道」ということばの「4万」の意義について語っちゃったりして、なおさら暗澹。もう、よほど微に入り細を穿って書かれた言葉の一つ一つにまつわる知識に精通しないと文学作品の理解には到達しないんじゃ……という、どうしようもない突き放され感。

しかし、ぬまのっちはオクジャワの詩を引用するだけじゃなくて、何を思ったのか、オクジャワが歌ってるフィルムを上映。それが……なんちうか……

直撃だったのですよ。オクジャワの故郷にしてその象徴とも言えるモスクワのアルバート通りを感傷的に歌った歌なんだけど……直撃ですわ。私はロシア語は文字と発音がうっすらと一致する程度で、とても「分かる」とは言えない。そのわかんねーロシア語の発音の歌を聴き、日本語に訳された逐語訳を読んだだけなのに、何なんだ、この、自分の今までのリアル体験にはなかった郷愁めいた感傷は。こんなもので本当にオクジャワを「理解した」とは思わないけれど……「真の理解」なんて、一緒に生まれ育った兄弟姉妹や、母語を同じくする長年連れ添った夫婦にも本当にあるとは言えないんだし。しかしその歌を聴いていると、これまで自分の中にはなかった郷愁や、自分で見てきたモスクワや、オクジャワが大好きだったという評論家の友人──と言ってしまっていいだろうか──故レフ・シーロフさんのこととか、いろんなものがいっぺんに湧き出してきて、本当にもうたまらない気持ちになったりしたのだった。物理的な長さは2㎞ほどであるアルバート街に向かって「君を歩き通すことは僕には出来ない」と歌う気持ちが切実なものになってしまう。なんでこんなことになっちゃうのか。

やっぱり、文学の理解において専門的な教育を受けた評論家なんて要らないんじゃ……?

あ、いやその、ええとですね、しかし、私も露ヲタの一人としてちょっとは知識・教養は蓄えてきましたし、ロシア語分かんねぇとは言っても、ちょっとは勉強したし……文学部的な教養あってこその感動だったのかもしれないってことで、ここはひとつ。今日の結論は「ほら、やっぱり21世紀にも文学部は必要ねっ!」ってことでカンベンして下さい(笑)。

なんてことを考えつつ、銀杏臭い本郷を後にする。ケータイをチェックすると友人からメールが入っていた。

「史緒ちゃん、銀杏いらない?」

いらない……orz

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