ロープシンの『蒼ざめた馬』発掘しました。そっか、映画の大公暗殺シーン、こうだっけ?と思ったけど、原作には無いんでした。原作では同志の一人が成功させて、主人公ジョージは直接手を下していないのだった。劇場で、というのはシャフナザーロフ監督のオリジナルなわけですね。
それと、「子供も乗っている馬車に爆弾を投げつけることができない」も原作には無いけど、これはロープシン=本名サヴィンコフがエス・エル戦闘団(いや、別に蒸気機関車でテロやってるわけじゃないす)にいた時に、実際に同志の一人が直面した「事実」だそうです。しかも、カミュが戯曲に取り上げているそうな。もう解説もすっかり忘れきってますです。
てぇことは、劇場での大公暗殺、子供の乗る馬車、ジョージの末路=サヴィンコフの生涯、という三点が原作との決定的な違いということですね。これってすごく大きいですね。当時としては、ロープシンが提示した「キリスト教的道徳と、テロに身を投じたインテリゲンチャの虚無」のあたりは多くの「ものを考える人」にとっては重大なテーマだっただろうけど、我々現代人にとっては、テロ「そのもの」や、テロの「もたらすもの」等のほうがリアルに直面する問題であるわけですし。ちと強引に決め付けるのなら、ロープシンにとっては「テロに至るまでの個人の内的葛藤」が重大事であり、現代の我々にとっては「テロによって社会に引き起こされるもの」が重大事であるというか。
劇場での暗殺シーンは、シャフナザーロフが考案した最も卓越なアイディアだったんではないかと思いますですね。同志や一般市民を数多く犠牲にしながらも爆弾テロが成功しない一方、劇場という衆人環境の中、拳銃のたった一発でつまみ食いのようにあっさりと成功してしまう計画外の暗殺。人民のためにこいつを殺さなければとまで思われていた大公個人は、おっとりとして優しげな印象で、銃を向けたジョージに、最後の最後まで「まさか本当に打つはずはない」と信頼を持っているようにも見える。本当にこれが「人民のため」の行為なのか、単なる個人的な殺人に過ぎないのか……。この一度の「殺し」の後、ジョージは恋人の夫に決闘を申し込んで、以外にあっさりと彼を撃ってしまう。プロの軍人であるその男も引き金を引く前にためらったのに、ジョージは彼よりも平然と引き金を引いてしまう。これも、連続殺人のニュースを毎日のように聞いている我々にとっては関心の行くポイントだろうし。
あ、そうそう、なんでエス・エル戦闘団のテロリストが英語の名前なのかというと、旅行中の英国人ジョージ・オブライエンという偽パスポートを持ってるからです。でも、これって通用するんかいな。ドイツ人が英国人のふりをしてモスクワに、とかだったらまあ何とかならんでもないだろうけど、日本人が中国人だということにして東京にいるようなものじゃん。いいのかそんなんで? ここだけはツッコミどころなんだけどなあ。
『死という名の騎士』は、ロシアではDVDで手に入ると思います。だったら西欧通販サイトにもありそう。というわけで井上センセイ、コメント欄にそれ系の情報書いてプリーズ。
シャフナザーロフの前作を見た人たちは、あまりにも駄作でどうしようと思ったそうで、イベントに呼ぶのはいいけどこれ上映するのはなあ……とマジ困ったらしい。しかしちょうど良くこういう傑作が完成した直後に映画祭になってほっとした、と(笑)。ううむ、駄作も作るのね(汗)。侮りがたし! シャフナザーロフ!
あ、それから「アロイス」の件は了承いたしました。別にシンクロニシティでもなんでもなくて、ある有名な小説はこれの盗作だ、と言い出した人がいるそうで、私に「アロイス」の話を振った人々は、それってどうなの?という話をしたかったのではないか、と。ご指摘ありがとうございます……。やはし枢要どころの日記はちゃんと巡回してないとダメですね。いや、しかし……なんちゅーか、気が滅入りますねえ。多重人格ネタというところだけで反応しちゃったのかな? こういう人って、そのうち『24人のビリー・ミリガン』にも盗作疑惑とか言い出すかもよ。人数を増やせばいいってもんじゃない!とか言って(笑)。
諸般の事情により、しばらくネットを離れます。ネットカフェに行ける余裕があるといいんだけど……っていうか、土浦ってネットカフェあるの(笑)? まあ、基本的には無いものと思ってますんで(いや土浦のネットカフェが、じゃなくて、行く余裕が)、更新、止まりますすんませんすんません(平伏)。
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