「若い人に薦めるSF」問題について
第63回日本SF大会(於・日本工学院専門学校蒲田キャンバス、会期・2025年8月30、31日)に行ってまいりました。自分のサイン会に始まり、両日とも「低血糖にならなきゃいいや~」とリポDゼリーを持ち歩いてお昼抜きでぎっちぎちに予定を詰めこんだので、けっこう疲れました。とはいえ、あの大会を支えて下さったスタッフの皆様のご苦労は私の何百倍かと思います。皆様、本当にありがとうございました。そして、大会で交流して下さった皆様もありがとうございました。
で、私の発言が発端でXを騒がせてしまった「若い人に薦めるSF」問題、あれから一週間、時々考え、散発的に発言してきましたが、読みにくいので、ちょっとここでまとめてみようかと思っております。
事の起こりは、大会二日目の「翻訳家に訊く。若い人にすすめたい海外SFは?」という企画を私が聴講しにいったことに始まります。壇上は、翻訳者の増田まもるさん、内田昌之さん、鍛治靖子さん、司会は小浜徹也さん、そして「SF入門者を代弁する質問者」としてやん@すちーむぱんく研究会さんという構成。ここでいきなりヴァン・ヴォクトのビーグル号やハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』から始まり、バラード等の名がフツウに挙げられていって、最終的に、「でも、最近の作品って言われてもねえ……」みたいなところに行ってしまったので、私としては「え゛え゛―――――っ?!」ってなってしまった次第です。
思うに、あの企画は、翻訳者諸氏は「少なくともSF大会に自主的に来るくらいにはSFに慣れ親しんでいる、まあだいたい40代以下くらいの人たちに薦める(古くからの)心の一冊」という趣旨で話し、質問者のやんさんは「SFゼロ状態の人、何なら翻訳文学にもあまり馴染んでいない人」として質問し、司会のコハマはノープランで「古くからSF界隈にいる人の内輪のだべり」状態だったというあたりがあの企画の噛み合わなさの根源だったのではないかと。そして私はと言えば、サイバーパンクが紹介された頃の巽孝之さんみたいな役割を翻訳者諸氏に期待していたのかもしれない(まあ私の期待もたいがいだったとは思いますが)。
それでXに投稿したらけっこうな騒ぎになってしまったという次第です。
X上では、私くらいの世代と思われる方々からは、「初心者に薦めるならさくっと読める星新一、フレドリック・ブラウン、マンガならドラえもん」等とレスがありましたが、いや、だから、70年代以前の社会に今以上のテクノロジーが混ざってきて、なのにネットも携帯電話さえない世界観を十代、二十代が「さくっと読める」かというと、私は疑問に思うわけです。
普通に外宇宙に行くのに家庭の通信手段が固定電話だったり、AI搭載のロボットが生活圏に溶け込んでいるのに情報源が紙の新聞や紙の地図だったり、世界を支配する中央コンピュータがパンチカード式だったりする小説をデジタルネイティブ世代が受容するには、やはりそれなりの「準備運動」が必要ではないかと思うんですよね。
今のデジタルネイティブ世代にとってのSFの入り口として作品の時代的分水嶺は、やはり携帯電話の有無ではないかと思います。若い子でもスマホじゃなくてもガラケーはそんなに距離感なく想像できると思いますが、「宇宙時代に固定電話」はさすがに入り口にはしづらいのではないかと。もう少し遡った分水嶺は、個人持ちのPCとインターネットの有無かなあ。私の世代はクラークやアシモフをそれほど古いと思わずに読んでいましたが、H・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌは「別物」でしたし。私の世代は星新一や子供用にリライトされたアシモフあたりから抵抗なく入ることができましたが、今のデジタルネイティブ世代にそれを求めるのは酷ではないかと思うのです。ドラえもんだって、確かに発想力という点では「古びない」作品と言えるでしょうけれど、スマホどころかガラケーもゲーム機もなくて、近所の空き地の土管で遊ぶ世界観は、私の世代にとっての『のらくろ』的な、「さくっと馴染むのは難しく、ちょっと回路を切り替えて読む作品」と感じるんじゃないかなあ。
また、「時代を経ても『古びない』作品もあるのに」という反論もいただきましたが、ある作品が「優れているがゆえに古びない」ことと、今現在の若い入門者に薦めやすいか否かはまったく別な問題ではないかと思います。「古びない秀作」は、秀作というレベルであるがゆえに、それを読解して楽しめるだけの基礎体力や、それが鑑賞できるくらいの読解力を身につけてからじゃないと、せっかく読んでも「ナニコレただの古臭いやつじゃん」で終わってしまう危険性はあると思う。
そういう意味でレトロSFは、まさしく「当時」を描いている一般的文学作品やミステリよりも、入っていくには準備が必要だと私は考えています。量的には大分冊である山崎豊子の社会小説や横溝正史やクイーンやクリスティのミステリは、最初から「当時」を描いていると分かっていて読むし、情報の伝達が固定電話だろうが交換手がつなぐ電話だろうが電報だろうが別に違和感はないでしょう。ましてやトルストイやデュマなんて、そもそも十九世紀のガイコクの話と最初から分かり切っていることなので、むしろレトロSFより違和感なく読めるのでは。でも、量的にはサクッと読めるはずの星新一やフレドリック・ブラウンの未来なんだかおじいちゃんおばあちゃんの時代なんだか分からない作品に若い入門者「サクッと」馴染むとは思えないのです。
ガジェット的、社会的に古臭いという理由でダサく感じられる小説でも、人間洞察や小説の展開的に優れていて、そういう意味で「古びない作品」はもちろんあります。だからこそ、そういうものを若い人に読んでもらうためにも、いい「助走」が必要であることを上の世代は認めたほうがいいと思っています。
とはいえ、ただただ「読みやすさ」と「イマっぽさ」だけを基準に入門書を選ぶのも問題で、やはりそこは一定の「質」を担保しないといけないでしょう。入門者であっても優れた読解力、理解力を持った読者はいますから、そういう読み手にただ読みやすくてイマっぽく流行ってる作品ばかり薦めても、「ええ……SFって所詮こんなもんなの? アホらし」ってなりかねない。だからこそ古参の知恵が必要だし、だからこそ古参の知恵者たちに「今の作品は昔の作品ほどすごくないから薦めたくない」みたいなことを言ってほしくないわけです。
そう、今回私が一番モヤったのは、会場から促されて最近の作品に言及した翻訳者諸氏の顔が渋かったこと。鍛冶さんに至っては「今の作品を昔の作品の熱量では読めない」とはっきり言ってしまい、皆、自分の最近の翻訳仕事からのオススメを上げるのを渋ったこと。そりゃまあ、感性が若者だった頃に出会った名作の印象は、今年や去年に出た泡沫作かもしれない作品と比べられないのは当然でしょう。私も「生涯の心の一冊」と言われたら『楽園の泉』とか言い出すし、近年出た宇宙エレベータ系の作品をそれと同じ熱量では読めません。それは分かるのよ。分かるんだけど、でもね、大前提が「若い人に薦めたい」である以上、古参の知恵者たちから今の作品をくさすような発言を引き出してしまったこの企画のインプロビゼーションが成功だったとは思えないのです。「サイバーセキュリティのフィクションとリアル」とか「古代DNA」みたいな、インプロビゼーションだからこその素晴らしい企画を見てしまった後では、なおさらもったいないとしか思えないのです。
わたしもつい客席から口出ししてしまい、私(五十代後半)の世代でも、若い頃に読んだアシモフやハインラインは古めかしく感じたし、ことに彼らの描く女性像は古くさく感じたと言ったのですが、鍛冶さんは「私は男性目線で読んでいたから気にならなかった」と即答したのも衝撃でした。そんな昭和の名誉男性(←この語は、若い人たちには是非検索していただきたい)感覚を今でも不自然に感じていない女性がいるんだ!という衝撃です。私はSF三大巨匠の描く女性像は「若い人や少女のはずなのにみんなおばさんみたい」としか思えなかったし、ヘタすると書割にしか思えないこともあり、とてもとても違和感がありました。だからこそ80年代にSFマガジンで読んだティプトリーの「たったひとつの冴えたやり方」に大衝撃を受けたわけで。
ちょっと話は逸れますが、小説に描かれた女性像としては、十九世紀の男性作家たちが描く女性像は古めかしいだけではなく、「ああ、男目線で外側から描いた女性だなあ」という感じは当然してしまうのですが、ドストエフスキーの気持ち悪いところは、初期の作品はともかく、『虐げられた人々』あたりから、登場する女性たちがとてもリアルで、現代の女から見ても共感できてしまう生々しさをもって描かれているところです。あのいけ好かないおっさんが、冷酷な男に弄ばれた女たちの微妙なキャラの描き分けとか、現代なら身体表現性障害に分類される少女の内面の変遷の描写とか、「推しが尊過ぎてムリ!」的な感覚を、現代人が読んでも共感できてしまうように書くわけですよ、あのクソ親父が。しかも、高校生の頃に読んで理解できなかった女性たちの内面が大人になって読み返すと共感できたり、彼女たちより上の世代になってから読み返すと俯瞰的に理解できたりするのです。気持ち悪くないですか?! 高校生の頃からドスト激ハマりだった私には、レトロSFに出てきがちな上っ面の皮だけ描いた女性像は、むしろドストエフスキーより読みにくく、古臭く感じてしまったのですよね。
鍛冶さんを個人攻撃する意図はないですが、ああいう昭和な名誉男性指向は、若い世代には何としてでも引き継いでほしくない価値観だと思うことです。
私は古めかしいSFそのものを「ダメ」と言うつもりはなく、それを高く評価することもダメだと思っているわけでもなく、ましてや年長者が心の一冊としてレトロSFを上げることも悪いと言っているわけではないです。ただ、「若い人に薦めたい」という前提である以上、「レトロSFから入れ」というのは老害に相当すると思うのです。例えば、アニメとかCMに使われていたクラシックの曲をもっとちゃんと聴いてみたいので何かオススメCDある?と訊かれたら、今現役のドゥダメルとか辻井伸行とかヒラリー・ハーンあたりから薦めればいいものを、クレンペラーとかバックハウスの歴史的名演から聴かないとクラッシックの真髄は理解できん!とか言ったら、入門者門前払いでしょ? Xである方が、「『エヴァを観て第九を聴いてみたくなったんだけど、どのCD聴いたらいい?』と訊かれて『フルトヴェングラーとバイロイトの歴史的名盤から聴け! 話はそれからだ!』って返したら入門者門前払いですよね」と言っていたけど、まさにそれ。ジャストそれです。SFでもそれをやっちゃいかんと思う、という話です。
以上、長くなりましたが、かまこんの企画で思ったことをまとめてみました。こういう思索の機会を与えていただいたという意味では、あの企画にとても感謝しています。













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