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2025年9月 6日 (土)

「若い人に薦めるSF」問題について

第63回日本SF大会(於・日本工学院専門学校蒲田キャンバス、会期・2025年8月30、31日)に行ってまいりました。自分のサイン会に始まり、両日とも「低血糖にならなきゃいいや~」とリポDゼリーを持ち歩いてお昼抜きでぎっちぎちに予定を詰めこんだので、けっこう疲れました。とはいえ、あの大会を支えて下さったスタッフの皆様のご苦労は私の何百倍かと思います。皆様、本当にありがとうございました。そして、大会で交流して下さった皆様もありがとうございました。

 

で、私の発言が発端でXを騒がせてしまった「若い人に薦めるSF」問題、あれから一週間、時々考え、散発的に発言してきましたが、読みにくいので、ちょっとここでまとめてみようかと思っております。

 

事の起こりは、大会二日目の「翻訳家に訊く。若い人にすすめたい海外SFは?」という企画を私が聴講しにいったことに始まります。壇上は、翻訳者の増田まもるさん、内田昌之さん、鍛治靖子さん、司会は小浜徹也さん、そして「SF入門者を代弁する質問者」としてやん@すちーむぱんく研究会さんという構成。ここでいきなりヴァン・ヴォクトのビーグル号やハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』から始まり、バラード等の名がフツウに挙げられていって、最終的に、「でも、最近の作品って言われてもねえ……」みたいなところに行ってしまったので、私としては「え゛え゛―――――っ?!」ってなってしまった次第です。

 

思うに、あの企画は、翻訳者諸氏は「少なくともSF大会に自主的に来るくらいにはSFに慣れ親しんでいる、まあだいたい40代以下くらいの人たちに薦める(古くからの)心の一冊」という趣旨で話し、質問者のやんさんは「SFゼロ状態の人、何なら翻訳文学にもあまり馴染んでいない人」として質問し、司会のコハマはノープランで「古くからSF界隈にいる人の内輪のだべり」状態だったというあたりがあの企画の噛み合わなさの根源だったのではないかと。そして私はと言えば、サイバーパンクが紹介された頃の巽孝之さんみたいな役割を翻訳者諸氏に期待していたのかもしれない(まあ私の期待もたいがいだったとは思いますが)。

 

それでXに投稿したらけっこうな騒ぎになってしまったという次第です。

 

X上では、私くらいの世代と思われる方々からは、「初心者に薦めるならさくっと読める星新一、フレドリック・ブラウン、マンガならドラえもん」等とレスがありましたが、いや、だから、70年代以前の社会に今以上のテクノロジーが混ざってきて、なのにネットも携帯電話さえない世界観を十代、二十代が「さくっと読める」かというと、私は疑問に思うわけです。

 

普通に外宇宙に行くのに家庭の通信手段が固定電話だったり、AI搭載のロボットが生活圏に溶け込んでいるのに情報源が紙の新聞や紙の地図だったり、世界を支配する中央コンピュータがパンチカード式だったりする小説をデジタルネイティブ世代が受容するには、やはりそれなりの「準備運動」が必要ではないかと思うんですよね。

 

今のデジタルネイティブ世代にとってのSFの入り口として作品の時代的分水嶺は、やはり携帯電話の有無ではないかと思います。若い子でもスマホじゃなくてもガラケーはそんなに距離感なく想像できると思いますが、「宇宙時代に固定電話」はさすがに入り口にはしづらいのではないかと。もう少し遡った分水嶺は、個人持ちのPCとインターネットの有無かなあ。私の世代はクラークやアシモフをそれほど古いと思わずに読んでいましたが、H・G・ウェルズやジュール・ヴェルヌは「別物」でしたし。私の世代は星新一や子供用にリライトされたアシモフあたりから抵抗なく入ることができましたが、今のデジタルネイティブ世代にそれを求めるのは酷ではないかと思うのです。ドラえもんだって、確かに発想力という点では「古びない」作品と言えるでしょうけれど、スマホどころかガラケーもゲーム機もなくて、近所の空き地の土管で遊ぶ世界観は、私の世代にとっての『のらくろ』的な、「さくっと馴染むのは難しく、ちょっと回路を切り替えて読む作品」と感じるんじゃないかなあ。

 

また、「時代を経ても『古びない』作品もあるのに」という反論もいただきましたが、ある作品が「優れているがゆえに古びない」ことと、今現在の若い入門者に薦めやすいか否かはまったく別な問題ではないかと思います。「古びない秀作」は、秀作というレベルであるがゆえに、それを読解して楽しめるだけの基礎体力や、それが鑑賞できるくらいの読解力を身につけてからじゃないと、せっかく読んでも「ナニコレただの古臭いやつじゃん」で終わってしまう危険性はあると思う。

 

そういう意味でレトロSFは、まさしく「当時」を描いている一般的文学作品やミステリよりも、入っていくには準備が必要だと私は考えています。量的には大分冊である山崎豊子の社会小説や横溝正史やクイーンやクリスティのミステリは、最初から「当時」を描いていると分かっていて読むし、情報の伝達が固定電話だろうが交換手がつなぐ電話だろうが電報だろうが別に違和感はないでしょう。ましてやトルストイやデュマなんて、そもそも十九世紀のガイコクの話と最初から分かり切っていることなので、むしろレトロSFより違和感なく読めるのでは。でも、量的にはサクッと読めるはずの星新一やフレドリック・ブラウンの未来なんだかおじいちゃんおばあちゃんの時代なんだか分からない作品に若い入門者「サクッと」馴染むとは思えないのです。

 

ガジェット的、社会的に古臭いという理由でダサく感じられる小説でも、人間洞察や小説の展開的に優れていて、そういう意味で「古びない作品」はもちろんあります。だからこそ、そういうものを若い人に読んでもらうためにも、いい「助走」が必要であることを上の世代は認めたほうがいいと思っています。

 

とはいえ、ただただ「読みやすさ」と「イマっぽさ」だけを基準に入門書を選ぶのも問題で、やはりそこは一定の「質」を担保しないといけないでしょう。入門者であっても優れた読解力、理解力を持った読者はいますから、そういう読み手にただ読みやすくてイマっぽく流行ってる作品ばかり薦めても、「ええ……SFって所詮こんなもんなの? アホらし」ってなりかねない。だからこそ古参の知恵が必要だし、だからこそ古参の知恵者たちに「今の作品は昔の作品ほどすごくないから薦めたくない」みたいなことを言ってほしくないわけです。

 

そう、今回私が一番モヤったのは、会場から促されて最近の作品に言及した翻訳者諸氏の顔が渋かったこと。鍛冶さんに至っては「今の作品を昔の作品の熱量では読めない」とはっきり言ってしまい、皆、自分の最近の翻訳仕事からのオススメを上げるのを渋ったこと。そりゃまあ、感性が若者だった頃に出会った名作の印象は、今年や去年に出た泡沫作かもしれない作品と比べられないのは当然でしょう。私も「生涯の心の一冊」と言われたら『楽園の泉』とか言い出すし、近年出た宇宙エレベータ系の作品をそれと同じ熱量では読めません。それは分かるのよ。分かるんだけど、でもね、大前提が「若い人に薦めたい」である以上、古参の知恵者たちから今の作品をくさすような発言を引き出してしまったこの企画のインプロビゼーションが成功だったとは思えないのです。「サイバーセキュリティのフィクションとリアル」とか「古代DNA」みたいな、インプロビゼーションだからこその素晴らしい企画を見てしまった後では、なおさらもったいないとしか思えないのです。

 

わたしもつい客席から口出ししてしまい、私(五十代後半)の世代でも、若い頃に読んだアシモフやハインラインは古めかしく感じたし、ことに彼らの描く女性像は古くさく感じたと言ったのですが、鍛冶さんは「私は男性目線で読んでいたから気にならなかった」と即答したのも衝撃でした。そんな昭和の名誉男性(←この語は、若い人たちには是非検索していただきたい)感覚を今でも不自然に感じていない女性がいるんだ!という衝撃です。私はSF三大巨匠の描く女性像は「若い人や少女のはずなのにみんなおばさんみたい」としか思えなかったし、ヘタすると書割にしか思えないこともあり、とてもとても違和感がありました。だからこそ80年代にSFマガジンで読んだティプトリーの「たったひとつの冴えたやり方」に大衝撃を受けたわけで。

 

ちょっと話は逸れますが、小説に描かれた女性像としては、十九世紀の男性作家たちが描く女性像は古めかしいだけではなく、「ああ、男目線で外側から描いた女性だなあ」という感じは当然してしまうのですが、ドストエフスキーの気持ち悪いところは、初期の作品はともかく、『虐げられた人々』あたりから、登場する女性たちがとてもリアルで、現代の女から見ても共感できてしまう生々しさをもって描かれているところです。あのいけ好かないおっさんが、冷酷な男に弄ばれた女たちの微妙なキャラの描き分けとか、現代なら身体表現性障害に分類される少女の内面の変遷の描写とか、「推しが尊過ぎてムリ!」的な感覚を、現代人が読んでも共感できてしまうように書くわけですよ、あのクソ親父が。しかも、高校生の頃に読んで理解できなかった女性たちの内面が大人になって読み返すと共感できたり、彼女たちより上の世代になってから読み返すと俯瞰的に理解できたりするのです。気持ち悪くないですか?! 高校生の頃からドスト激ハマりだった私には、レトロSFに出てきがちな上っ面の皮だけ描いた女性像は、むしろドストエフスキーより読みにくく、古臭く感じてしまったのですよね。

 

鍛冶さんを個人攻撃する意図はないですが、ああいう昭和な名誉男性指向は、若い世代には何としてでも引き継いでほしくない価値観だと思うことです。

 

私は古めかしいSFそのものを「ダメ」と言うつもりはなく、それを高く評価することもダメだと思っているわけでもなく、ましてや年長者が心の一冊としてレトロSFを上げることも悪いと言っているわけではないです。ただ、「若い人に薦めたい」という前提である以上、「レトロSFから入れ」というのは老害に相当すると思うのです。例えば、アニメとかCMに使われていたクラシックの曲をもっとちゃんと聴いてみたいので何かオススメCDある?と訊かれたら、今現役のドゥダメルとか辻井伸行とかヒラリー・ハーンあたりから薦めればいいものを、クレンペラーとかバックハウスの歴史的名演から聴かないとクラッシックの真髄は理解できん!とか言ったら、入門者門前払いでしょ? Xである方が、「『エヴァを観て第九を聴いてみたくなったんだけど、どのCD聴いたらいい?』と訊かれて『フルトヴェングラーとバイロイトの歴史的名盤から聴け! 話はそれからだ!』って返したら入門者門前払いですよね」と言っていたけど、まさにそれ。ジャストそれです。SFでもそれをやっちゃいかんと思う、という話です。

 

以上、長くなりましたが、かまこんの企画で思ったことをまとめてみました。こういう思索の機会を与えていただいたという意味では、あの企画にとても感謝しています。

 

2025年の新刊 『アンスピリチュアル』

202507271そういえばこちらで新刊の告知をしておりませんでした。2025年6月、早川書房より『アンスピリチュアル』を上梓いたしました。オーラが視えてしまうが故にスピリチュアルを信じられない38歳のパート主婦祝子(のりこ)が、ある日、繁華街で占い師にその「視える」力を見抜かれ、職場では祝子にもオーラを視ることのできない若い理学療法士と出逢い、運命が大きく変わってゆく……その果てに何があるのか、年の差純愛の行方はどこに着地するのか……というような話です。

私は以前から、本当にオーラとか霊が視えちゃう人って、世間に普及しまくっているスピリチュアル商売の嘘や薄っぺらさも分かってしまうので、逆にスピリチュアルには走らないんじゃないだろうか、どうなんだろう、とずっと疑問に思っていました。と言いつつ、オカルト、スピリチュアル方面にはけっこう親和性のある生き方をしてきたので、そういう疑問や関心を扱う小説は書いてみたかったのです。

SFマガジンにも掲載された、辛酸なめ子さんとの対談記事もありますので、そちらも合わせてお読みいただければと思っております。

 SF作家が描く疑似科学、年の差恋愛、新興宗教――『アンスピリチュアル』刊行記念対談 高野史緒×辛酸なめ子

2025年3月19日 (水)

電書版『ムジカ・マキーナ』『アイオーン』『ウィーン薔薇の騎士物語』そして薔薇の騎士電書版あとがき全文公開

 




長らく入手困難となっておりました私のデビュー作『ムジカ・マキーナ』と、やはり入手困難だったハヤカワSFシリーズJコレクションの『アイオーン』の電書版が早川書房より発売となりました。とりあえずAmazonのリンクを貼っておきます。

高野史緒『ムジカ・マキーナ』

高野史緒『アイオーン』

 

そして、アドレナライズからは中央公論新社のC★NOVELSファンタジアから出した『ウィーン薔薇の騎士物語』全五巻が電書として再刊されました。もう四半世紀も前のことなのね……。いろんな意味驚きます。で、こちらの第五巻巻末に、電書版のあとがきを書き下ろしたのですが、プロモーションとしてそのあとが全文を公開いたします。これを読んでもしご興味を持って下さったら、是非ポチってやってください。

 

『ウィーン薔薇の騎士物語』電書版書き下ろしあとがき

『ウィーン薔薇の騎士物語』全五巻は、私がデビューして五年目、六年目にあたる二〇〇〇年~二〇〇一年にかけて、中央公論新社のC★NOVELSファンタジアで書かせていただいたライトノベル作品です。ライトノベルとはいっても、今(二〇二五年)から見てもう四半世紀も前のことなので、だいぶ概念が違う時代でした。「ラノベ」というより、ジュニア小説や少女小説に近い感じの領域でした。書き方については「分かりやすさ」に配慮してほしいという要望はありましたが、テーマも内容も自由にさせて下さり、書きたいものを書かせていただきました。久しぶりに目を通すと、記憶していた以上に本当にやりたいようにやっており、同社には感謝しかありません。
 江戸川乱歩は(っていきなり話は飛びますけど)後半生の仕事について、「乱歩もあんなに文章が上手くなってしまってはもう小説は書けまい」というような評をされたそうです。ミステリ作家の芦辺拓さんはこのことについて「随筆・評論はみごとだが創作は激減し、たまに書いても魅力に乏しくなった。小説の文章も漫画の絵も、それ単体で完璧であったら物語は紡げない。どこか不安定で未完成だからこそ次々連鎖してゆく」と言っています。確かに、自分が小説を書き続けられたのは、文章力も物語もいつでもどこかが足りないからこそだったと思います。
 それでもやっぱり、このシリーズは改めて読み返してみると、闇に葬りたい黒歴史原稿にも思えますし、同時に、今となってはこんな面白いものは書けない小説にも思えます。いずれにしても、この作品はあの時の私にしか書けなかったものだと思います。欠点も未熟さも含めて愛おしい、他ならぬ自分の歴史……なんだけれどやっぱりちょっと恥ずかしいですね。

 この作品は、十九世紀末、音楽家になりたい一心で地方都市リンツから音楽の都ウィーンに家出してきた少年フランツが、音楽の仲間たちに出会ったりさまざまな事件に巻き込まれたりしながら成長してゆく物語です。といっても期間は一年ほどなので、そんなには成長してないかもしれませんが。まあ一言で言ってしまえばそれだけの話なのですが、各巻にはそれぞれに元ネタや思い出や「その後」があるので、それについて少々触れておきたいと思います。

第一巻『仮面の暗殺者』は、クラシック音楽好きの方はすぐに気がつかれたと思いますが、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』を物語の骨格にそのまま取りこんでいます。そこにロシアによる暗殺計画やフランツたちのオーケストラがからんでややこしいことに。シュトラウスのオペラは二十世紀に作曲された十八世紀が舞台のオペラですが、とても十九世紀的なウィンナ・ワルツが流れちゃうという、シュトラウスのやりたいようにやっている世界観でできています。この『薔薇の騎士』ネタの小説は最初は単発のものとして構想していたのですが、いろいろいじっているうちに短めのシリーズものになってゆきました。かの有名なオーストリア皇太子ルドルフも出てきますが、ルドルフはもっとシリーズで活用したかったという思い残しがあります。

第二巻『血の婚礼』は一度はやってみたかったBL&吸血鬼の話。吸血鬼を呼ぶと言われる曲や行方不明になったフランツをめぐって、ミステリ仕立てで書いてみました。終盤のスプラッタなシーンは、短命ながら大変多作だったオペラ作曲家ガエターノ・ドニゼッティの代表作『ランメルモールのルチア』の終幕をフィーチャーしました。「狂乱の場」と呼ばれるそのシーンは、恋人と引き離されて意に染まぬ結婚を強制された主人公が、その花婿を殺し、血まみれの婚礼衣装で祝宴に現われて、超絶技巧のコロラトゥーラ・ソプラノで二十分近く一人で歌いきる、鬼気迫る名場面です。中心となるアリア「あの方のやさしい声が」は、狂乱とはかけ離れた優美な長調の曲で、CDなどで音だけを聴くとまったく「狂乱」という印象はないのですが、オペラの中で見聴きすると本当にもう壮絶で戦慄します。今(二〇二五年)現在、You Tubeでナタリー・デッセイ(Natalie Dessay)による「狂乱の場」の大変な名演が見られるので、ご興味のある方は是非一度ご覧になってください。

第三巻『虚王の歌劇』はやはりミステリ仕立ての話で、リヒャルト・ワグナーの楽劇のいくつかに言及しますが、特定の作品のストーリーは借りてはいません。バイエルン王御前演奏会のオーディションがちょっと『タンホイザー』の「歌の殿堂」っぽくはありますね。この巻でキーパーソンとして登場するベルンシュタイン公爵は、私のデビュー作『ムジカ・マキーナ』のベルンシュタイン公爵と同一人物、あるいは異世界版のベルンシュタイン公爵だと思ってくださってけっこうです。バイエルンの「狂王」と呼ばれたルートヴィヒ二世は直接には登場しませんが、それが私の中で消化不良になってしまい、二〇〇五年に「SFマガジン」に「白鳥の騎士」という中編でルートヴィヒ二世とベルンシュタイン公爵のスチームパンクな話を書きました(『ヴェネツィアの恋人』河出書房新社、二〇一三年収録)。「白鳥の騎士」はさらに後日談があって、二〇二四年に英国の出版社Luna Press Publishingからシャーニ・ウィルソンさんの翻訳で『Swan Knight』として英語版が出版されました。消化不良や後悔も、時には未来につながることがありますよね。

第四巻『奏楽の妖精』では、フランツは母国のオーストリア・ハンガリー二重帝国を離れて、帝政ドイツのベルンシュタイン公国に行きます。いつもの仲間たちの助けが借りられない中、可愛いけどちょっとウザいソプラノのクリスタ嬢の存在感が増します。第四巻のラストで愛用の楽器を失ったフランツが、ベルンシュタイン公国に伝わるいわくつきのヴァイオリンの名器〈シレーヌ〉を貸与するかどうかの試練を受けますが、巻きこまれ型の主人公だったフランツは、ここで自分の意志である決断を下します。この巻ではついに明らかに殺人事件としか言いようのない事件が起きますが、その事件に絡んでくる小国ボーヴァルは、私の『架空の王国』(中央公論社、一九九七年)のボーヴァルと同一だと思ってくださってけっこうです。いやー、ほんとにやりたいようにやってますね……

第五巻『幸福の未亡人』は、もうタイトルからしてお分かりの通り、フランツ・レハールの代表作、オペレッタ『メリー・ウィドウ』が骨格になっています。オペレッタというのは、日本語では「喜歌劇」と訳されることもあり、その名の通り、多くの場合、ハッピーエンドのライトな内容であることがほとんどです。『メリー・ウィドウ』も、複数のカップルが恋愛がらみの行き違いを繰り返しながらも音楽はハッピーエンドの予感しかしないテイストの作品ですが、そんなことを知る由もないフランツたちは振り回されながらも事態の収拾に奔走します。もうすぐジルバーマン楽団の試用期間を終えるフランツの運命やいかに……
 この巻を書く時、登場人物たちそれぞれの行動のタイムテーブルはどうなっているのだろう、と、だいぶ考えました。この時の経験がのちに『カラマーゾフの妹』の執筆に生かされ、乱歩賞の受賞につながったのですから、何が幸いするか分からないものです。

 ……と、物語はここでひとつの区切りを迎えますが、フランツ、アレクシス、エゴン、トビアスの四人はまだそれほど弦楽四重奏団として活躍していないし、クリスタも声楽家としてよりいっそうの研鑽を積む様子だし、ジルバーマン楽長の音楽家としての野望はまだまだありそうです。本当にここで終わってしまってよいのか?と当時の読者さんたちにもずいぶん言われました。が、この後、史実としての世紀末には暗雲が垂れこめ、急激に暗い時代に向かっていきます。バイエルンの「狂王」ルートヴィヒ二世が謎の死を遂げ、トビアスとつながりの強い皇太子ルドルフが身分違いの愛人と心中、その母である皇后エリザベートも暗殺されるなど大事件が続いて、フランツの故国オーストリア・ハンガリー二重帝国には早くも一九世紀中に崩壊の兆しが現れます。ヨーロッパとロシアは革命と戦争の時代に突入してゆくのです。音楽シーンでは、ワルツやポルカは次第に時代遅れとなり、ワルツ王ヨハン・シュトラウスの楽団も解散、交響曲はより重厚長大大規模指向になり、オペラもシリアスで時には暴力的な内容のヴェリズモ・オペラが主流となってゆきます。それを考えると、フランツたちの物語は、まだいくらかは呑気さの残っていたこの古き良き時代で終えておくほうが幸せなのかもしれません。

 最後に、この物語を電書という形で復刊しただけではなく、当時のイラスト全点の再録を手配して下さったアドレナライズの井手邦俊さんと、当時素敵なイラストを描き、今回その再録を許可して下さった瀬口恵子さんに、改めてお礼を申し上げたいと思います。そして、この物語を待っていて下さった読者の皆様にも、深く深く感謝いたします。未だに作家としては未熟さのある私ですが、だからこそ、これからも小説を書き続けられるのだと思っております。

二〇二五年三月              高野史緒

 

とりあえずAmazonのリンクを貼っておきます。

高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語1 仮面の暗殺者』

高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語2 血の婚礼』

高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語3 虚王の歌劇』

高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語4 奏楽の妖精』

高野史緒『ウィーン薔薇の騎士物語5 幸福の未亡人』

 

アドレナライズが提携しているプラットフォームはこちらになります。

まだまだ未熟なところのある時期の作品群ではございますが(って、それじゃ今が成熟しているのかというとそうでもなく……)、私にとってはどれもが命を削り、お腹を傷めて産んだ愛しい子供たちです。当時からの読者さんたちも、最近『ツェッペリン』などから読み始めたという読者さんも、どなたさまも楽しんでいただけたらと思っております。

 

2025年3月11日 (火)

2023年から今まで

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2023年のSFカーニバル以来、サイトとブログの更新をさぼっておりました。というのも、私のX(旧Twitter)をご覧になっていね方々はご存じかと思うのですが、2023年6月、私の夫、井上徹が病気で急逝し、仕事をするだけで精いっぱいの状態が続いたからです。そういう時、短文でちょろっと更新できるXはありがたかったのですが、それなりに手間を要するサイトや、それなりにちゃんとした文章を書かないといけないブログはどうしても後回しになってしまいます。夫が亡くなった後、プロバイダのアカウントがなくなるとサイトもブログも消滅するのを目の当たりにすると、ますますやる気も削がれようというものです……。ネットでは一方で、ネット上のことは完全には「消せない」デジタル・タトゥだと言われますが、もう一方では消える時は本当にきれいさっぱりと消え去ってしまうものですよね……。ただでさえ悲しいのに、よりいっそうやるせない気持ちになります。

しかし、少なくとも自分が生きている間(niftyにアカウントがある間)は、読者の皆様に情報を提供する義務があるはずです。というわけで、いずれはネットの大海に消えてゆく一滴であるとしても、提供すべき情報がある時はブログもサイトも更新してゆきたいと思っております。

2023年6月、夫が倒れた時、私はまさにその年の新刊の著者校の真っ最中でした。挫折しそうになりましたし、担当者さんはホンモノのデッドラインまで待つとも、もし本当にどうしようもないのなら出版を先延ばしにしてもいいと言ってくださったのですが、ここで仕事を放棄したら井上が一番がっかりするだろうと思い、大勢の友人たち、仕事仲間たちに支えてもらって、予定通り出版することができました。その前後のことは記憶が曖昧ですが、今考えると精神科で言うところの「乖離」はしていたかもしれません。が、そうして必死に出した『ツェッペリン』は予想外に大勢の方に読んでいただき、『SFが読みたい! 2024年版』では国内第一位に選んでいただき、第55回星雲賞日本長編部門もいただける運びとなりました。あらゆる方面に対して、本当に感謝しかありません。

しかし井上亡き後、さすがに書けなくなり、その年はほとんど記憶が曖昧なまま過ぎてゆきました。が、この時は、それまで発表のあてもなく、ただ書きたいという理由だけで書きためていた連作短編が助けてくれました。2024年には、『ビブリオフォリア・ラプソディ あるいは本と本の間の旅』(講談社)を世に送り出すことができ、この出版が自分の中の、まだ魂が入っていない小説のアイディアたちに少しずつ生命力を与える糧となりました。「フォリア(偏愛)」が示す通り、文字通りその筋の人たちが言うところの「書痴」たちの連作短編です。これはさすがに「SFとして」という形では全然評価されないだろうなあと思っていて、『SFが読みたい! 2025年版』では完全にランク外だろうと思っていたのですが、意外にも10位に入れていただきました。望外の喜びです。

記憶が曖昧なので正確な時期は覚えていないのですが、不思議な経験もしました。井上が亡くなって……どのくらいだったかなあ……半年以上は経っていたと思うけど、一年はなかった気がする……とにかく、けっこう時間が経ってから、ある日突然、井上宛に一本のボールペンが送られてきました。ロゴを調べてみると、比較的新しいネットマガジンのサイトのようでした。なんかそういうプレゼントの企画があったようなのです……けど……ねえ……井上、とっくに死んでますけど……? もうこれは、夫からの「書き続けろ」というメッセージだったのかもしれません。そう思うことにしました。

2024年には、イギリスのLuna Press Publishingという、小さいけれどすでにいろいろな賞を受賞するような本も出している出版社から、Sharni Wilsonさんの翻訳で『Swan Knight』を出版することができました。これは『ヴェネツィアの恋人』(河出書房新社)に収録されている中編「白鳥の騎士」の英語版です。この英訳はシャーニさんが大変な労力を費やして下さったもので、私にとっても本当に嬉しい出版でした。日本のAmazonでも買えますので(kindle版もあります)、もしご興味のある方がいらっしゃったら、是非、シャーニさんの才能に触れてみてください。

2023年から2024年にかけては、短編も少し発表しました。「秘密」(早川書房『AIとSF』、ちなみにこの作品も前述の翻訳者シャーニさんの訳でアメリカのKhoreo誌に掲載されました)、「アッシャー家は崩壊しない」(新紀元社『幻想と怪奇 ショートショート・カーニヴァル』)、「百合の名前」(新紀元社『幻想と怪奇 不思議な本棚 ショートショート・カーニヴァル』)、「孤独な耳」(『サイボーグ009トリビュート』)……だけだったと思います。いろいろ回復しきっていないので、何か抜けがあるかもしれません。

あとは、2024年の年末に、電書出版のアドレナライズから、四半世紀以上前の作品『ヴァスラフ』が復刊されました。当時も今も遅筆な私は、著作の数自体がそんなに多いわけではないので、何らかの形で「読める」自作を増やしていただけるのは本当にありがたいことです。

今年、2025年は、私の作家デビュー30周年の年に当たります。ここまで書いてこられたのも、拙著を読んで下さる読者さんたちのおかげだと思っております。そういうわけで、今年はサイン会の際にお渡しできる豪華粗品(どっちだよw)を制作します。イラストとデザインはYOUCHANに発注いたしまして、先日、腰が抜けるほど素晴らしいラフが上がってまいりました。今年のSFカーニバルにはまた新刊が間に合わなくて申し訳ないのですが、それでもわたしのサイン会に来て下さった読者さんたちにはプレゼントできると思います。

一昨年から思わぬ形で片翼飛行となってしまいましたが、井上に心配させないためにも、これからも何とか書き続けていきたいと思っております。

 

 

 

2023年4月19日 (水)

SFカーニバル2023とサイン会

告知がギリギリになってしまいましたが、今年も代官山蔦屋さんと日本SF作家クラブのコラボイベントとして、SFカーニバルが行われます。期間は2023年4月22(土)、23(日)日。第43回日本SF大賞の授賞式を始めとして、トークイベント、総勢五十名ほどのクリエイターが名を連ねる大サイン会、現地土谷さんに来て下さった方々へのプレゼント企画などが行われます。

で、不肖わたくしめもサイン会に出させていただくことになっております。

時間は22日土曜日の15時から15時45分、場所は上記の通り代官山蔦屋詰んです。蔦屋さんの二号館と三号館の間の通路に幾つかブースが設けられまして、みんなそこでサインをするわけですが、まだどこのブースに割り当てになるかは分かりませんが、とりあえずそのあたりに来ていただければ分かります。サインできるのは当日蔦屋さんで買っていただいた本になりますが、これは蔦屋さんの販促イベントでもありますので、そこのところはどうかご理解いただければ幸いです。

なんですが……実は、新刊一冊が7月、三冊のアンソロジーが5~6月に出るという……つまり、何もかも間に合わないのでございます。なので、既刊の本にサインすることになります。本当にすみません……。お求めやすいよう、文庫を中心に取り揃えています。そして、新刊が間に合わないお詫びに、ちょっとしたおまけをお付けいたします。『まぜるな危険』をお買い上げの方には、先着三名にさらに特製のおまけをつけます。あと、ご自由にお持ちくださいの新刊案内も用意します。いや~、もうほんと、新刊間に合わなくてゴメンナサイ。

もちろん、私の他に多彩な方々がサイン会にお出になられますし、今年は来て下さった方にプレゼントの企画もあるのです。詳しくはこちらをご覧になってください。

代官山の蔦屋さんは一度は見ていただきたい、本当にステキな本屋さんです。店内を散策するうち、いろんな本と出会えてしまう魅惑の書店。周囲にはワンコを散歩させている人も多く、レアな犬種が見られたりもします。そして、SFカーニバル期間中は、あんな作家さんやこんなイラストレーターさんやそんなマルチクリエーターさんがその辺にいたり、漫然とたむろっていたりして、意外な人とお話しできてしまったりもします。週末はちょっと気温が下がりそうなのですが、天気は大丈夫のようです。是非お出かけいただければと思っております!

2022年9月20日 (火)

読書会用『巨匠とマルガリータ』キャラ表

9月26日20時から、Twitterのスペースで、『巨匠とマルガリータ』のゆる~いアカデミック度ゼロの読書会をやります。テキトウなので修理用時間不明。まあ小一時間ってところでしょうか(スピーカーが増えたらもうちょっと長くやりますが)。で、読んだはいいけどキャラの名前が分かんなくなりやすくて、という方は多いかと思いますので、ちとキャラ表を作ってみました(あまりにもマイナーなキャラは抜き)。ご活用ください。

●モスクワ

イヴァン・ポヌイリョフ
二十三歳の詩人。モスクワ作家協会(マスソリト)会員。ペンネームは「宿なし」。ベルリオーズの事故を目撃する。悪魔の存在を証言して狂人扱いとなり、ストラヴィンスキイ教授の精神病院に入院させられ、そこで巨匠と出会う。物語の最期には結婚して歴史の研究者となっており、月夜の晩には幻想に悩まされる。

ミハイル・ベルリオーズ
作家協会の会長で文学雑誌の編集長。唯物論者。モスクワに現れたヴォランドの予言通りに、路面電車に頸をちょん切られる形で死亡。葬式でその首が消失し、舞踏会の最期にはヴォランドに「死後に何も残らないと信じる者はその通りになる」と宣言されて非存在の領域に消え去り、首は朽ち果ててヴォランドの盃となる。

ヴォランド
悪魔。ソ連に招待された外国人として登場。四十歳を少し過ぎたくらいに見える。黒魔術の教授。上質なグレーのスーツを着ている。モスクワのヴァリエテ劇場で手下たちに黒魔術のパフォーマンスを行わせ、人間を観察する。ベルリオーズの豪華なアパルトマンを占拠して滞在し、ヴァリエテ劇場を混乱に落とす。年に一度の舞踏会の女王にマルガリータを選び、舞踏会を主催する。物語の最期には巨匠とマルガリータの運命を導く。

コロヴィエフ
ヴォランドの一味。チェックのスーツを着ている。教会の聖歌隊長だったと名乗るが、正体は、かつては高貴な騎士であった。別名ファゴット。よく黒猫ベゲモートと行動を共にしており、舞踏会の後、五十号室やモスクワの外貨専門ショップ、作家協会で破壊活動を行う。

ベゲモート
巨大な黒猫。二本足で立って歩き、人間の言葉を話す。時には小柄で太った男に姿を変えることもある。

アザゼッロ
ヴォランドの部下。赤毛で、背が低いのに肩幅が異様に広く、口から牙の出た醜い男。射撃が得意。劇場支配のリホジェーエフを魔法でヤルタに飛ばす。マルガリータに魔女のクリームを渡す。

ヘルラ
赤毛と緑の瞳の魔女。ヴォランドの身の回りのことをしており、気が利く。首の傷跡さえなければ非の打ちどころのない美女。黒魔術ショーではパリ仕立てのブティックを展開し、劇場中の女性たちが夢中になる

ステパン・リホジェーエフ
ベルリオーズとアパルトマンの五十号室をシェアしている。ヴァリエテ劇場の支配人。自宅に突然現れたヴォランドに、記憶にない魔術公演の契約書を見せられ、魔法によってヤルタに瞬間移動させられる。

巨匠
三十八歳くらいの男。元は博物館職員。宝くじが当たって博物館を退職し、ポンティウス・ピラトゥスについての小説の執筆に専念する。博物館時代は既婚者だった。モスクワのトヴェリ通りでマルガリータと恋に落ちる。評論家ラトウィンスキイ等の酷評によって作家生命を絶たれ、原稿を焼く。自ら望んでストラヴィンスキイの病院に入院し、そこで詩人イワンに身の上を語る。

マルガリータ
巨匠の恋人。かなり年上の優秀な科学者(国家にとっても重要な人物であるらしく、裕福)と若くして結婚した。ある日、黄色い花束を持ってトヴェリ通りを歩いている時に巨匠と知り合い、不倫の関係になる。ベルリオーズの葬送を見ている時にアザゼッロに魔法のクリームを渡され、サバトの夜にそれを全身に塗って魔女になる。ヴォランドの舞踏会で女王を務める。

ナターシャ
マルガリータの小間使い。マルガリータが使い残した魔女のクリームの力でサバトにやってきて、舞踏会の後、俗世に残らず正式に魔女となった。

ストラヴィンスキイ教授
最近モスクワの河岸にできた新しい精神病院の院長。巨匠や詩人イワン等がここに入院する。

ニカノール・ボソイ
サドーワヤ通り二〇三番地のアパルトマンの住居者組合議長。太った男。コロヴィエフに賄賂を掴まされて密告され、逮捕されるが、気がふれているとしてストラヴィンスキイ教授の病院に収容される。

ヴァレヌーハ
ヴァリエテ劇場の総務部長。黒魔術ショーの招待券を欲しがる人々から逃れるため劇場を出、公衆トイレに立ち寄ったところでアザゼッロとベゲモートに拉致され、五十号室に連れて行かれ、ヘルラに誘惑される。その後劇場でヘルラとともにリムスキイを襲う。

リムスキイ
ヴァリエテ劇場の経理部長。黒魔術ショーの後の大混乱を執務室の窓から見る。その後、ヴォランドに操られたヴァレヌーハとヘルラに襲われかけ、恐怖のあまり、モスクワからレニングラードに鉄道で逃亡する。事件後、劇場を退職

ベンガリスキイ
ヴァリエテ劇場の司会者。ヴォランドの黒魔術ショーで頭をちょん切られて元に戻され、気がふれ、ストラヴィンスキイ教授の病院に収容される。

ラーストチキン
ヴァリエテ劇場の会計係。リボジェーエフとリムスキイとヴァレヌーハが姿を消した後、後始末に追われる。

ラトウィンスキイ
巨匠の作品を酷評し、言わば作家としての巨匠を破滅させた存在。マルガリータに恨まれ、魔女となったマルガリータは彼の住居を破壊する。

アロイージイ・モガールイチ
巨匠が酷評された後にできた友人。巨匠の小説を理解する。と思いきや、実は巨匠の住居を手に入れるために陰で巨匠を非合法文書所持と密告していた。狡猾で、リムスキイ退職後のそのポストにつく。

マクシミリアン・ポプラフスキイ
キエフの計画経済学者。ベルリオーズの叔父。五十号室のベルリオーズ居住部分を相続するためにモスクワにやって来るが、ヴォランドの一味に放り出される。

ソーコフ
ヴァリエテ劇場のビュッフェ主任。ポプラフスキイに続いで五十号室を訪れ、黒魔術ショーでばらまかれた札で払われたビュッフェ代が紙きれになったことについて相談する。

マイゲール男爵
表の顔はモスクワのソ連国営旅行会社(インツーリスト)の外国人担当の職員だが、実は諜報員。

ニコライ・イワノヴィッチ
マルガリータの近所の男。ナターシャの魔法で豚に変えられ、ナターシャを背に載せてサバトに飛んで行き、悪魔の舞踏会に参加する。事件後、俗世に帰ってきてしまったことを後悔する。

●古代エルサレム

ポンティウス・ピラトゥス
ローマ帝国第五代ユダヤ属州総督。頭痛持ち。ヨシュアを有罪として処刑させるが、後悔の念があり、ヨシュアの死後、彼を裏切ったユダを部下アフラニウスに暗殺させる

バンガ
ピラトゥスの愛犬。飼い主とその後の運命を共にする。

ナザレ人ヨシュア
神殿で教えを説いていて逮捕される

レビのマタイ
ヨシュアの弟子の一人。ユダへの復讐を企てるがピラトゥスに先を越され、現世にまでヴォランドを追ってくる。

イスカリオテのユダ
ヨシュアの弟子の一人。ヨシュアを裏切り、銀貨三十枚で官憲へ売る。

2022年9月 7日 (水)

「二つと十億のアラベスク」オーディブル版に池澤春菜さん登場!

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2022年9月2日、Amazon Audibleから拙著「二つと十億のアラベスク」のオーディオブック版の配信が開始されました。

その朗読者がですね、各方面にワガママを聞いていただき、何と、池澤春菜さんなのでございます!

聞かせていただいたのですが、これがもう、本当に素晴らしいのです! 声が美しい、発音が美しいにとどまらず、キャラの一人一人に、作品の隅々に、「魂が入ってる」感がすごいのです! 自分で指名しておきながら「こんなすごい朗読者がいるとは!」と驚く始末。主人公の唯ももちろん素敵なのですが、AIの高瀬さんがもう、たまらなく魅力的なのです。これは恋に落ちます。ええ。

これはAmzon Audibleに加入していなくても単品購入できますので、是非是非是非多くの方に聞いていただきたいです。

二つと十億のアラベスク Audible版

2022年4月28日 (木)

2084年のSF

日本SF作家クラブ編のアンソロジー、『2084年のSF』(早川書房)のラインナップが発表になりました。

福田和代「タイスケヒトリソラノナカ」
青木 和「Alisa」
三方行成「自分の墓で泣いてください」
逢坂冬馬「目覚めよ、眠れ」
久永実木彦「男性撤廃」
空木春宵「R__ R__」
門田充宏「情動の棺」
麦原 遼「カーテン」
竹田人造「見守りカメラ is watching you」
安野貴博「フリーフォール」
櫻木みわ「春、マザーレイクで」
揚羽はな「The Plastic World」
池澤春菜「祖母の揺籠」
粕谷知世「黄金のさくらんぼ」
十三不塔「至聖所」
坂永雄一「移動遊園地の幽霊たち」
斜線堂有紀「BTTF葬送」
高野史緒「未来への言葉」
吉田親司「上弦の中獄」
人間六度「星の恋バナ」
草野原々「かえるのからだのかたち」
春暮康一「混沌を掻き回す」
倉田タカシ「火星のザッカーバーグ」

異常23篇です。

私の「未来への言葉」は、宇宙開発的にはちょっとSF過ぎるかなあという面はありますが、今の、そして未来の物流関係者、医療関係者への感謝と応援こめて書きました。

このラインナップを見ていると、一読者としてもワクワクします。はよ読ましてー! とにかく楽しみです。

発売は5月24日。はよ読ましてー!

2022年4月12日 (火)

SFカーニバル@代官山&梅田蔦屋

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ギリギリの告知になってしまいましたが、来る16日(土)、17日(日)に代官山と梅田の蔦屋で開催される、日本SF作家クラブコラボイベント「SFカーニバル」でサイン会を行います。

サイン会作家参加は総勢三十余名。芥川賞作家や直木賞候補作家もいます。そんな中で、どういうわけか私は利用日サイン会をします……って、大大丈夫なのかそれ? そんなに人来ないんじゃ……💧 しかし、高野のサインをもらってやってもよい、という奇特な方の中には、16日には行けないけど17日ならいけるとかその逆とかの方もいらっしゃるでしょう。そういう方の便宜を考えると、一日しかやらんとも言い難く……。かくて、ガラガラかもしれないけど両日サイン会します。盛林堂も出店しますので、盛林堂ミステリアス文庫の『カラマーゾフの兄妹 オリジナル・ヴァージョン』も販売しますし、サインも入れられます。あと、SF大賞選評冊子をお買い上げいただくと、それに参加作家の寄せ書きサインも入れることができます。

私の出番は、16日は13:30~14:30、17日は16:00~17:00です。ああ……きっとヒマだと思いますので、どうか来てやってくださいませ。

その他にも、イベントや企画が盛りだくさん。SF大賞の授賞式も配信されます。

SFカーニバルの開催概要やサイン会のタイムテーブルはこちらから→ SFカーニバル特設サイト

2022年2月28日 (月)

『カラマーゾフの兄妹 オリジナル・ヴァージョン』盛林堂ミステリアス文庫

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SF大賞は『大奥』に負けました……

で、まあ、それはそうと実はこのほど、第58回江戸川乱歩賞受賞作である『カラマーゾフの妹』の、投稿時のオリジナル・ヴァージョンを盛林堂ミステリアス文庫さんから私家版として上梓する運びとなりました。

 もともと、2020年が作家としてデビューしてから25周年になるので、何かしたいとは思っていたのですが、SF大会も何もかもコロナで吹っ飛び、そのままになっていたのですが、2021年11月にイラストレーターYOUCHANさんの個展の時に久しぶりにお目にかかった盛林堂の小野純一さんにそういうような話をした時、小野さんが目の覚めるような速度で私の夢を実現して下さったのです。

それがこの『カラマーゾフの兄妹 オリジナル・ヴァージョン』です。盛林堂版にその経緯や背景をまえがきとして書きました。ご購入の参考としていただきたく、以下にそのまえがきの全文を掲載いたします。

 

 

盛林堂ミステリアス文庫版まえがき

 二〇一一年、東日本大震災は、直接には被災しなかった者たちの人生をも変えた。私もそうした変化を被ったうちの一人である。もっとも大きな変化は、憧れながらもついに一度も応募しなかった江戸川乱歩賞に、その時書きかけだった、私のキャリアの中でも特別な一冊になるであろう作品を送り出すという決心だった。一生に一度だけ、乱歩賞に応募したい。そうすれば少なくとも、大地震の地割れに飲みこまれながら「ああー! 乱歩賞に応募しておけばよかったー!」とわめかなくても済むのではないだろうか。

 もちろん、作家として地味ながらもそれなりにキャリアを積んできた私が落選すれば、相当に恥をかくのは分かっていた。では別ペンネームで応募するか? しかしその場合、受賞すればそれまでの読者を裏切ることにならないだろうか。そうなるくらいなら、自分が恥をかく覚悟で、高野史緒の名前で応募すべきではないか。

 ありがたいことに、私の『カラマーゾフの兄妹』は第五十八回江戸川乱歩賞として選んでいただいた。選考委員の先生方の評価も、厳しいお言葉も、全てがありがたく、今でも私の糧として生きている。日本推理作家協会会長(当時)の東野圭吾先生のご助言により、タイトルを『カラマーゾフの妹』に変更したが(原タイトルのままだと口頭で『カラマーゾフの兄弟』と区別がつかず、損をすることもあるだろうということで)、それ自体は正しい判断だったと思っている。が、実は出版に当たっては大幅な改稿を余儀なくされており、そのことがずっと心残りとなってい
た。

 乱歩賞の受賞作が出版時に改稿されるのは普通のことである。もっともそれは、新人の原稿を編集者とともに練り上げるという意味でのことだ。しかし私の場合の改稿は事情が違っていた。まず第一の理由が、私自身が応募に際して意図的に削った部分を復活させることだった。この原稿はどう考えても応募規定の五百五十枚以内に収まりきらないのは分かっていたので、だったらストーリーを損なわない程度に描写や台詞を削っておいて、出版する時にしれっと足しとけばいいや、ということだ。そこはまあ、プロなので、そのくらいの技術はある。それはいい。それはい
いのだが、しかし、問題は第二の理由だった。出版社サイドから、「あまりにもSFすぎるので、これはちょっと……」と言われたのだ。

 正直に言おう。『カラマーゾフの兄妹』はそもそも、『カラマーゾフの兄弟』×『Xファイル』という企画だったのだ。当然、私としては、そんな改稿は認めたくなかった。が、あんまり粘ると出版してくれなさそうな雰囲気になってきたので、仕方なく改稿したのである。ロケットやバベッジ・コンピュータも実はすごく渋られたのだが、そこは押し通した。さすがにそれを抜くと作品の趣旨自体が変わってしまう。

 『Xファイル』……そう、私は『Xファイル』が好きなのだ。『カラ兄』とどっちが好きかと言われると困るくらい好きだ。当然、『兄妹』オリジナル・ヴァージョンでは、「あんなもの」や「こんなもの」が出て来る。もうすでにお分かりの方もいらっしゃるかと思うが、イワン・カラマーゾフ=フォックス・モルダーだ。半地下のオフィスも妹の存在も、当然と言えば当然なのだ。

 出版ヴァージョンは、第一の改稿理由によって、応募原稿よりは小説としては出来がいいという印象はあるだろう。本人としても、今読み返すと書き直したいというより、ゼロからやり直したいと思わずにはいられない。が、応募原稿はコンパクトさも手伝って、「なんかスゴイ」感はある。選考委員の先生方に認めていただいたのはこのヴァージョンなのだから、これはこれで自分でも認めてあげたいと思うのだ。もしチャンスがあれば、いつかはこちらも私家版として出版してみたいと以前から思っていた。もちろん、我が子の中でもとりわけ大切な作品なので、誰に託
してもいいというわけにはいかない。そうこうするうち、乱歩賞からまもなく十年という年月が経ってしまった。そんな中、二〇二一年の十一月、イラストレーターのYOUCHANさんの個展に集ったメンバーに話半分という感じでこの件を相談してみたところ、盛林堂書房の店主小野純一さんがあっという間に実現の段取りをつけてくださったのである。もちろん小野さんならば、我が子を託す相手としてはこんなにありがたい存在はない。しかも、解説は細谷正充さん、装丁はYOUCHANさんという豪華さだ。細谷さんには、拙著『まぜるな危険』(早川書房)が第
四回細谷正充賞でお世話になったばかりだが、まるで長年のお付き合いがあったかのように快くこの仕事を引き受けて下さった。一方、YOUCHANさんとは友人としての付き合いは長くなったが、いつか一緒に仕事をしたいと思いつつ、なかなかその機会がなかった。小野さん、細谷さん、YOUCHANさんのお三方が揃うというのは、商業出版でもなかなか望めない、嬉しいのを通り越して申し訳ないとさえ思ってしまう豪華な布陣だ。こんなにありがたいことがあるだろうか。

 二〇二一年は乱歩賞から十周年記念の年である。この私家版は、その記念であるとともに、これまでの私を支えてくれた友人たち、読者さんたち、出版関係者、家族への感謝の表明だ。お楽しみいただければ幸いである。

 

 

予約は3月6日から。販売は3月19日からです。3月17~21日の第61回神田古本まつり青空掘り出し市の盛林堂書房ワゴンで先行発売いたします。私も応援に行こうと思っておりますので、皆様よろしくお願いいたします。

今、ロシアは本当にシャレにならない状況ですが、本書中盤の、アリョーシャによる政権批判が、まさか今日に至るまで変わりがないということに心底驚いています。ロシアの文化は、単に文化というだけではなく、常に圧政のもとにあったロシアの市民たちの抵抗と自由への希求の声でもあるので、そうした文化人や市民の声を受け継ぐためにもロシアの文化を愛し続けたいです。でもこのアリョーシャの長台詞なんて、案外今のロシアでも出版できないかもしれませんね。まさか21世紀にこんなことになろうとは……

 

販売ページはこちら→ 盛林堂ミカテリアス文庫『カラマーゾフの兄妹 オリジナル・ヴァージョン』

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